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関根潤三が「“大洋の遠藤”でいいんじゃないか」遠藤一彦が大洋ホエールズとともに引退を決めたワケ「ひとつの絵になるかと納得できた」 

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石塚隆

石塚隆Takashi Ishizuka

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photograph bySPORTS NIPPON

posted2022/10/07 06:21

関根潤三が「“大洋の遠藤”でいいんじゃないか」遠藤一彦が大洋ホエールズとともに引退を決めたワケ「ひとつの絵になるかと納得できた」<Number Web> photograph by SPORTS NIPPON

1992年10月7日、「ホエールズ」が消滅する日に引退し、胴上げされる遠藤一彦。その決断の決め手となったのは関根潤三元監督だった

好投をした数日後に戦力外通告

 この年、遠藤は故障で出遅れたものの6月から戦線に復帰し、3勝を挙げていた。ストレートは140km台半ばを記録し、代名詞であるフォークも切れを取り戻していた。すでに37歳ではあったが、来季も行けると本人は手応えを感じていた。

 しかし好投をした9月27日の広島戦の数日後、遠藤は球団から戦力外通告を受ける。引退をするか、あるいは自由契約となり他球団への移籍を模索するか選択を迫られた。まさに寝耳に水であった。

 去就の返事は10月2~4日の阪神3連戦が終わるまでに出せということだった。早急に迫られる決断。未練はあった。球団側も他のチームへ打診し、いくつか色好い返事をもらっていたという。

決め手となった関根潤三の言葉

 だが、遠藤は引退することを選んだ。決め手は、1982年から3年間ホエールズの監督を務めた関根潤三の言葉だった。

「すごく悩みましたが、僕が一番伸びた時期の監督で信頼していた関根さんが『“大洋の遠藤”でいいんじゃないか』と言ってくれて、踏ん切りがつけられたんです。運良く、川崎から横浜に移転したとき入団し、その“横浜大洋ホエールズ”が消えるタイミングで終われるのは、ひとつの絵になるかと納得できました」

 遠藤の幕引きに誰よりも動揺したのが、長年、苦楽をともにしたチームメイトの齊藤明雄(当時の登録名は斉藤明夫)だった。

「練習が終わると球団関係者に遠藤が呼ばれて、帰ってきたと思ったら表情がおかしかった。どうしたって訊いたら、戦力外だと……えっ、嘘だろって……」

 遠藤より2カ月早く生まれた1学年上の齊藤は、川崎時代最後のドラフト1位であり、1977年には新人王に輝き、以後、最優秀防御率、最優秀救援投手などを獲得した、ホエールズもう一人のエースである。

【次ページ】 二人であと何年やれるかと考えたりもしたよ

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