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夏の甲子園・都道府県別「勝利数ベスト20」…謎ルール「敗者復活戦」があった和歌山、梅雨が長くても「逆境を友達に」沖縄は何位?
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/08/17 11:00
夏の甲子園「都道府県別勝利数」20~6位を一挙発表!
明徳義塾の前に…高知を強くした「あの名将」
高知は戦前一度も四国大会を勝ち抜けず、戦後1回目の1946(昭和21)年が初出場と弱かった。しかし、『年代2』では兵庫、広島と並んで7位タイと飛躍した。
その原動力は、2人の監督だった。高知商業は1947(昭和22)年に松田昇が就任し、翌年に春夏連続出場を果たす。根性が前面に押し出される時代に、松田はデータ野球を展開した。控え選手に敵チームの練習を見学させて情報収集し、試合中のベンチには相手選手の特徴が書かれた紙を貼り付けた。ライバルの土佐は1950(昭和25)年に溝渕峯男が指揮官となり、テレビ中継の始まった1953(昭和28)年に県勢初の準優勝に輝く。溝渕監督は、選手に三振した後でもベンチに戻る際に“全力疾走”を指示した。のちの籠尾良雄監督で有名になったが、最初に徹底させたのは溝渕だったという。
溝渕は安芸高校を経て、1964(昭和39)年に高知高(以前の城東高)の監督に転身。エースで4番の有藤通世(ロッテ)、主将の三野幸宏を軸に同校を4度目の甲子園出場に導く。しかし、夢舞台の初戦に有藤、2回戦に三野が死球を受けて戦線離脱。早期敗退やむなしと思われたが、全員野球で県勢初優勝をもたらした。球界の人脈にも長けた溝渕は、翌年に阪神の安芸キャンプ誘致に成功。戦前に巨人、戦後に阪神の監督を務めた藤本定義、“球界の寝技師”と呼ばれて西武の黄金時代を築いた根本陸夫と交流を深め、その後も近鉄や南海、西武のキャンプの実現に一役買った。間近でプロの練習を見られる環境は、県のレベルをさらに向上させた。
『年代3』の後半から『年代4』にかけては明徳義塾が強さを見せ付けた。1992(平成4)年には2回戦の星稜戦で超高校級スラッガーの松井秀喜(巨人)を5打席連続敬遠して接戦を制したが、スタンドからは野次が飛び、メガホンが投げ込まれる大騒動に。“ヒール”のイメージの付いた馬淵史郎監督は10年後、森岡良介(中日)や筧裕次郎(オリックス)らを育て上げて悲願の全国制覇。観客から温かい拍手を送られ、涙を流した。
総合1ケタ台になると、戦前から安定的に強い地域がランキングに入る。