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甲子園NHK解説者が語る“大阪桐蔭が敗れた理由”「(下関国際は)絶対王者を意識していなかった」…2年生・前田悠伍の涙に重なる「2018年の最強世代」
posted2022/08/19 17:01
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph by
Hideki Sugiyama
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旭川大高、下関国際の「共通点」
大阪大会では7試合で54得点、1失点と他校を圧倒。本大会でも2回戦で埼玉代表・聖望学園を19対0で下すなど、驚異的な強さを見せてきた大阪桐蔭はなぜ負けたのか。
「初戦で善戦した旭川大高、準々決勝で勝利した下関国際には共通点がありました。それは選手たちが誰を相手に戦っていたのか、という点です。大阪桐蔭を相手に、ヒットを打っても塁上で当然だという顔をしている旭川大高の選手、インコースに臆せず攻めていける下関国際の投手……両チームの選手たちは、大阪桐蔭という『名前』に負けていなかった。引いたら負ける、そんな強い相手だからこそ自分たちがやれることに集中する。逆説的な言い方になりますが、相手が絶対王者ということを“意識していなかった”。旭川大高と下関国際の戦い方は、今後全国の高校にとっても参考になると思います」
甲子園の出場校は、いずれも各都道府県を制したチームである。そんな強豪校でさえ、「名前負け」してしまう大阪桐蔭は、その強さから“ヒール”の役割を担った稀なチームだった。
かつて黄金時代を築いた巨人・川上哲治監督や西武・森祗晶監督が「バントばかりでつまらない」と非難されたように、あまりに勝ち続けると突っ込みどころを探される。大阪桐蔭は“有望な野球留学生をたくさん取っている”という批判に晒された。
「野球留学生が多いから強い」のいわれなき批判
47都道府県49校代表制になった1978年以降、甲子園出場を目指すため、県外への越境入学という“野球留学”が増加した。当時、この行動には否定的な論調が多数を占めていた。広島県の高校野球連盟は1982年から「県外出身選手の登録は1チーム5人以内」という規制を実施。制限違反へのペナルティーはなかったが、この申し合わせは1997年まで続いた。
現在も“野球留学”は肯定派と否定派に分かれる。1990年代に鳥取県有数の進学校である公立の米子東の監督を務めた杉本氏はどう考えるか。