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夏の甲子園・都道府県別「勝利数ベスト20」…謎ルール「敗者復活戦」があった和歌山、梅雨が長くても「逆境を友達に」沖縄は何位?

posted2022/08/17 11:00

 
夏の甲子園・都道府県別「勝利数ベスト20」…謎ルール「敗者復活戦」があった和歌山、梅雨が長くても「逆境を友達に」沖縄は何位?<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

夏の甲子園「都道府県別勝利数」20~6位を一挙発表!

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岡野誠

岡野誠Makoto Okano

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BUNGEISHUNJU

〈野球とは十八人の人々が九人宛敵と味方に分れ球や打棒などという道具を使って互に攻め合ふ遊戯〉

 1915(大正4)年の『第1回全国中等学校優勝野球大会』の開幕日、主催社の大阪朝日新聞にはこんな説明が載っていた。日本で野球が国民的人気スポーツになる過程において、高校野球は多大な貢献をしてきた。今回、『夏の甲子園』における都道府県別の勝利数ランキング(1915~2021年)を“年代別”にも算出。弱小県から強豪県へ生まれ変わらせた監督にスポットを当てながら、100年以上に及ぶ歴史を振り返る。(全3回の#1/#2#3へ)

※敬称略、名前は当時。プロ入りした選手はカッコ内に最初の所属球団を記載。

いつから49代表? 昔は県大会→“地方予選”があった

 まず、ランキングを見る前に代表校数の変遷を把握しておかなければならない。

 当初は、現在のような47都道府県、49代表校(東京2校、北海道2校)出場の制度ではなかった。甲子園は10区切りの記念大会で新たなルールを取り入れる傾向があり、1958(昭和33)年の第40回記念大会に初めて全国から出場校が揃った。その後、5年ごとにその方式が採用され、1978(昭和53)年の第60回記念大会から49代表制になった(※正式な決定は翌年)。

 それ以前は、県大会の後に各地方の予選が存在し、地域編成は頻繁に変わっていた。

 旧制中学時代から独立して代表を送れたのは北海道、東京、大阪、兵庫しかない。都道府県の通算勝利数を考える場合、各年代の潮流を知るためにも出場校数の変遷などに合わせて時期を区切るべきだろう。

年代1:1915~47年(旧制中学=大会開催数27)
年代2:1948~77年(新制高校=大会開催数30)
年代3:1978~99年(全47都道府県常時出場=大会開催数22)
年代4:2000~21年(全47都道府県常時出場2=大会開催数21)
※1918年の第4回大会は米騒動、1941年の第27回大会は第二次世界大戦の影響で中止。1998年、2008年、2018年は埼玉や千葉なども2校代表。2020年の第102回大会は交流試合のため含めない。

 この前提条件を踏まえた上で、まず都道府県別の通算勝利数20位から16位を挙げよう(カッコ内は4つの年代における順位変遷)。

【次ページ】 目立つ“沖縄の躍進”…いつから強くなった?

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