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「サボリカって呼ばれてました(笑)」本郷理華が振り返る、落ちこぼれの私がGPシリーズで優勝しちゃうまで
text by
荘司結有Yu Shoji
photograph byShigeki Yamamoto
posted2022/07/23 11:00
昨年6月に現役引退を発表、今年1月に引退セレモニーが開かれたフィギュアスケーターの本郷理華さん。現役時代のすべてを振り返るロングインタビューです
本郷 今の自分だったらやらないと思う。当時はそこまで重く受け止めてなかったんですよね。事の重大さを分かっていないというか……。仙台のリンクが閉鎖されて、長久保先生が拠点を移すときにスケートをやめるか続けるか母に聞かれたけど、スケートが大好きだったから「やりたい」って言って。
「名古屋に行くなら家族とも離れ離れになるけどそれでも続ける?」って念押しされたけど、名古屋に友達もいたし、先生たちも顔見知りだったから「いくいくー」みたいな軽い気持ちで返したんですよね。母のほうがすごい決断をしていたと今は思います。
――大事なお子さんを預けるわけですからね。
本郷 こんな何をしでかすか分からない娘を(笑)。ただでさえスケートはお金がかかるのに、生活が二重になる分、さらに大変だったと思います。私はそんなことまで深く考えずに、ただ好きなスケートを続けたいという気持ちだけだった。母にはすごく感謝しています。
――フィギュア王国の名古屋では、さらに同世代のスケーターとの差を感じることもあったのではないでしょうか?
本郷 仙台では県大会で優勝したり、メダルをもらったりしたけれど、やっぱり名古屋はレベルが違いましたね。ノービスに上がる前後でまったくレベルが違って、大きな試合に出ると「もうこの子トリプルルッツまで跳べるんだ!」とかびっくりしたのを覚えています。
中学1、2年までは全日本ノービスと全日本ジュニアに出られたらいいなくらいの気持ちだったけれど、東日本大震災があって考え方が変わりました。中学3年に上がる年でしたね。
「サボリカ」にスイッチが入った“2つの転機”
――家族と離れ離れで不安も大きかったかと思います。
本郷 あの頃は母と一緒に暮らしていたんです。ちょうど名古屋のリンクで滑っているときに急に揺れて……。テレビを見たら仙台が大変なことになっていて、残っている家族とも連絡がつかないし、本当に心配でした。
家族が被災して大変な思いをしているのに、自分は好きなスケートだけしてていいのかな?って悩みました。でも祖母は「理華がスケートを頑張ることが、私も頑張ろうと思えるきっかけになる」と励ましてくれて。「サボリカ」だった私にスイッチが入ったのはその瞬間ですね。
――スケートに向き合う姿勢が変わったんですね。
本郷 もっともっと頑張らなきゃいけないって気づいたんですよね。これまでも分かっていたつもりだったけど、改めて思い知ったというか。練習がキツいなって思っても、被災した皆さんの苦労を思えば全然大したことはないだろうって。
――成長も実感できたのでしょうか?
本郷 スイッチが入ってからの成長スピードは早かったと思います。トリプルを全種類跳べるようになったのもその年だったし。思えばスイッチが入った瞬間が2つあって、1つ目のスイッチが東日本大震災だったんですよね。
――2つ目のスイッチとは?