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本郷理華25歳が明かす、五輪落選から“空白の1年半”…宝石店バイトで気づいた「スケートじゃなくても頑張ったら生きていける」
posted2022/07/23 11:03
text by
荘司結有Yu Shoji
photograph by
Shigeki Yamamoto
休養中にはジュエリーショップで働いていたことも話題に。引退発表から1年が経つ今、知られざる“空白の1年半”を振り返るとともに、コーチや振付家として活躍する現在を語った(全3回の3回目/#1、#2から続く)。
五輪の夢破れて「このままスケート続けたって意味ないよ」
――中編では、平昌五輪の選考を振り返っていただきました。代表切符には届かず、19年8月に休養を発表しましたが、この間にはどんな思いがあったのでしょうか?
本郷理華さん(以降、本郷) 五輪出場という夢を叶えられなかった反省を生かして、また4年計画で頑張ろうとも思っていたんです。でも、左足がまた痛みだして、色々と上手くいかなくて、リンクに行くのが辛くなったんですよね。
全日本選手権のあとは1~2週間くらいリンクを離れました。人生で初めてスケート靴を持たないまま仙台でお正月を過ごして。アイスショーのための練習はしていたけれど、気持ちが入りきらないままでした。
――張り詰めていた気持ちがプツンと切れた感覚でしょうか?
本郷 気持ちと身体が噛み合わず、「このままスケート続けたって意味ないよ」とかどんどん悪い方向に考えるようになり……。私って周りのことはポジティブに考えられるのに、自分のことになるとネガティブなんですよね。このままではダメだと思ったので、関(徳武)先生に相談してカナダに行くことにしました。
――なぜカナダに行こうと思ったのでしょう?
本郷 シェイ=リーン・ボーンさんに振り付けしてもらったとき、初めてカナダで練習したんです。それがすごく楽しかったんですよね。先生や選手も明るくて開放的で、すごくいきいきとしていて……。こんなスケートの仕方もあるんだって身をもって実感しました。
休養前にカナダに行ったときも、日本では全然ジャンプができてなかったのに、アクセルもサルコーも跳べるようになって。先生も自由に練習させてくれたので、スケートが楽しいなっていう気持ちを思い出せました。
――スケートを楽しめるようになったのに、なぜリンクを離れようと思ったのでしょうか?
本郷 楽しむ気持ちが戻っていた一方で、「このままでいいのだろうか」というネガティブな思いも完全に消えていなかったんです。大学も卒業して、普通なら働いている年齢ですし、世界でトップにいたら続けようとも思えたけれど、調子も落ちていましたから。
あるタイミングで「プツン」と糸が切れました。新しいプログラムもあったけど、こんな調子で見せたくないなと。せっかく好きなプログラムが嫌いになっちゃいそうで、先生に「辞めるつもりで休みます」と伝えました。
休養宣言「滑らなくなったら自分には何もない」
――そして休養を宣言されます。後に、この休養期間にジュエリーショップで働いていたことが話題になりましたよね。なぜ働こうと?
本郷 滑らなくなったら自分には何もないなと思って。もうスケートには戻れない気持ちになっていたので、リンクから離れて生きていくためにどうするか考えたんです。バイト経験も無かったから、とりあえず働いてみようと思いました。
――自分で職を探して?