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「五輪という夢だけが叶えられなかった」本郷理華25歳が語った“スケートが好きから義務になった瞬間”《特別グラビア》
posted2022/07/23 11:01
text by
荘司結有Yu Shoji
photograph by
Shigeki Yamamoto
世界選手権に3度出場するなど日本代表として活躍した一方、夢だった五輪出場は叶わなかった。引退から1年が経った今、五輪を意識した瞬間や激戦の平昌五輪選考会を振り返った。本郷さんにとって、オリンピックとはどんな存在だったのか(全3回の2回目/#1、#3)。
オリンピックが“現実的な夢”になった瞬間
――#1では「気がついたらスケートを始めていた」と話していましたが、世界の舞台を意識したのはどんなタイミングでしたか?
本郷理華さん(以降、本郷) やっぱりトリノオリンピックの荒川静香さんがきっかけですね。テレビで応援してたときは、まだオリンピックの特別感はあまり分かってなかったと思う。でも、金メダルを獲ったら日本中がお祝いムードになって、オリンピックってすごい舞台なんだなあって気づき始めたんです。
――荒川さんの凱旋パレードで、本郷さんが一緒にオープンカーに乗っていたのを覚えています。
本郷 車に乗せてもらったときに、金メダルがちょうど目の前にあったんです。すごくキラキラしててすごく重たくて……。オリンピックというよりかは、この金メダルが欲しい!って思ったんですよね。それからオリンピックに出るために、ちゃんとトップの選手になりたいなって思い始めました。
――五輪出場という夢が現実味を帯びてきたのは、やはりGPロシアで優勝した時期でしょうか?
本郷 ぼんやりとしていた夢が、「オリンピックに出たいからこうやって頑張っていこう」と現実的に考え始めたのはシニアに上がってからですね。GPロシアでの優勝はその夢に近づいているというよりかは、シニアの試合で結果を残せたという意味が、自分の中では大きかったと思います。
代名詞的プログラムとなった「リバーダンス」
――シニア1年目であれほど注目されると、2年目のプレッシャーも大きかったのではないでしょうか?
本郷 周りからも「2年目が大変だよ」とよく言われましたね。1年目が良かったからそれ以上の結果を自分でも求めてしまうし、周りも期待するだろうし。だからこそより気が引き締まったというか、2年目で油断したとか思われたくないから絶対やってやろうと覚悟できました。
――事実、シニア2年目のSP「キダム」とFS「リバーダンス」は共に、本郷さんの代名詞的プログラムとなりました。
本郷 あっこ(鈴木明子)さんに作ってもらった「キダム」はすごく褒めてもらって、私も好きな曲だったので練習から気分が上がっていましたね。
「リバーダンス」を選んだのは、イギリス人の父の影響ですね。やっと先生からOKが出たという感じでした。二つとも大好きなプログラムなので、いいものを見せたいという気持ちが強かったんです。
――シニア1年目はジャンプのイメージが強かったのですが、シニア2年目では表現力にも磨きがかかっていましたね。