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植木通彦がいま明かす「ボートレース史に残る名勝負」の裏側とは? フライングで終わった“最後のSG”は「胸が張り裂けそうでした」 

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曹宇鉉

曹宇鉉Uhyon Cho

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photograph byBOAT RACE振興会

posted2022/05/29 11:01

植木通彦がいま明かす「ボートレース史に残る名勝負」の裏側とは? フライングで終わった“最後のSG”は「胸が張り裂けそうでした」<Number Web> photograph by BOAT RACE振興会

現在も「ボートレース史上最高の名勝負」として語り継がれる1995年の第10回グランプリ優勝戦。激しく競り合う5号艇の植木通彦と1号艇の中道善博

三浦知良らとの“扱いの差”で味わった悔しさ

 当時、植木は「ボートレースのスポーツとしての面白さを伝えたい」という思いを強く抱いていた。1993年に日本プロスポーツ大賞の功労賞に選ばれたが、大賞の三浦知良をはじめ、野球やサッカーといったメジャースポーツとの扱いの差は歴然だった。その悔しさが、ファンに熱いレースを届けるモチベーションになったという。

「注目度ではなく、獲得賞金だけで選ばれているような気がしたんですね。その授賞式であらためて、競技としてのイメージを上げるうえで『お金、お金』というのはどうなのかな、と感じました。もちろん私自身もボートレーサーになったときは、大なり小なりお金が大事でしたよ。でも次第に、競技のことが知られていない現実がわかってきた。あの悔しさがなければ、『これだけ稼いでいるんだぞ』とふんぞり返っていたかもしれませんね(笑)」

 結果的に、1995年のグランプリでの激闘は、ギャンブル面だけではないボートレースのスポーツとしての魅力を世に伝える嚆矢となった。翌1996年、植木はグランプリを4コースからの豪快なまくりで連覇し、公営競技史上初の“2億円レーサー”となる。

「このときは中道さんか僕のどちらかが勝てば2億円レーサーという状況でした。追い風がかなり強く吹いていて、まくりは難しいコンディションでしたが、スタートの瞬間だけ風がやんだ気がして……。『もう1回やれ』と言われても絶対にできない、いろんな人に背中を押してもらったレースです」

SG未勝利だった4年間の葛藤と完全復活

 20代にしてボートレーサーとして頂点を極めた植木だが、1997年の笹川賞(ボートレースオールスター)から2001年のグランドチャンピオンまで、獲得賞金は毎年1億円を超えながらも4年間にわたってSG未勝利という時期も味わっている。

「周りのレベルが上がってきて、これまでだったら抜けるはずのものが抜けない。自分で自分を苦しめて、もがいていました。今にして思うと、当時は自分の決めたやり方に固執しすぎていて、変化を取り入れる柔軟性がなかった。まあ、プライドもあったんでしょうね(笑)。2002年ごろから、時代の最先端を参考にしつつ自分のものにしていく、という新しい方程式ができました」

 その2002年に完全復活を遂げた植木は、グランプリを含む年間SG3勝をマーク。2億8418万4000円という現在も残る公営競技歴代1位の年間獲得賞金記録を打ち立てた。

【次ページ】 「胸が張り裂けそうになった」ファンの熱いエール

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