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ぶら野球BACK NUMBER
“巨人史上最強の助っ人”がアゴに右ストレートで大乱闘…毎年言ってた「今シーズンで引退する」クロマティはなぜ球界の人気選手になった?
posted2022/05/20 11:01
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
BUNGEISHUNJU
平成が始まったばかりの日本列島を1円玉不足が直撃した。89年4月1日から3パーセントの消費税が導入されたのである。当時のプロ野球もほとんどのチームで入場料の値上げを決断。慣れない制度に頭を悩ませた日本ハムはA席3296円、B席2678円、C席1854円と3パーセント分だけ上乗せした細かい料金設定で、確かに1円玉不足も頷ける。そして、同じ東京ドームを本拠地としていた巨人はA席4200円、B席3100円、C席2100円と強気の値段設定。S席の4700円は全球団のホーム球場と比較しても最も高額なチケットだったが、それでも連日超満員。昭和の価値観が色濃く残る平成が始まったばかりの球界において、巨人はまだ圧倒的な人気と集客力を誇っていた。
ほぼ全試合が地上波テレビのゴールデンタイムで生中継され、そのど真ん中で主役を張ったのが、ウォーレン・クロマティである。MLBのエクスポズでの9年間で通算1063安打を放ち、勝負強い中距離打者として評価されたクロウは、83年オフにFAでサンフランシスコ・ジャイアンツへの移籍発表が秒読み段階まで来ていた。しかし、当時30歳になったばかりの現役バリバリの大リーガーが予想外の行動に出る。なんと、年俸を値切られたことに腹を立て直前ですべてをキャンセルし、日本のトーキョー・ジャイアンツと3年180万ドル(約4億2480万円)の大型契約を結んだのである。
「日本行きは、何か他のものにチャレンジしたかったんだ。伝説的な存在の王さんが監督になって、オレが欲しいと言っているそうだ。それなら、という気になった」とのちにクロウは明かしたが、王貞治の監督1年目であり、球団創立50周年を飾る大物助っ人として来日する。
「プロのドラマーになりたい」「33歳くらいで野球をやめたい」
『週刊ベースボール』84年7月9日号では小林繁の直撃インタビューを受け、日本選手のヘビースモーカーぶりにカルチャーギャップを感じつつも、同僚の中畑清の明るさを「セントラル・リーグのホットドッグ」と褒め、不振に喘ぐ原辰徳には「タツはもっと自信を持って、リラックスした方がいいよ」なんてアドバイスを送り、他のチームメートともトモダチになりたいと笑う。さらに将来のビジョンについて、こんな言葉を残している。