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「そっとしておいてくれ」レース直前に各社一斉の取材拒否も…名騎手・柴田政人とウイニングチケットはいかに日本ダービーを制したのか?
posted2022/05/25 17:00
text by
高川武将Takeyuki Takagawa
photograph by
KYODO
創刊以来、Numberに掲載された競馬ノンフィクションを厳選した、Number PLUS「名馬堂々」が、昨年10月の発売以来、異例の増刷を重ねています。
今回は、5日後に迫った日本ダービーを前に、1993年のダービーを制したウイニングチケットと主戦・柴田政人を描いた「柴田政人、26年目の追憶」(初出:『Number』978号、2019年5月16日発売/肩書などはすべて当時)を特別に全文公開します。《全2回の1回目/後編に続く》
「もう、そんなに経つのかねぇ」
そう言うと、彼は眩しそうに目を細めた。
春のうららかな日差しが降り注ぐ自宅のリビングで、柴田政人はゆっくりと語りはじめた。19回目の挑戦で悲願のダービー制覇を果たしてから、26年が過ぎた。'95年に引退後、調教師となり厩舎を運営してきたが、それもこの2月末で定年を迎えていた。頭は白いもので覆われ、体型も変わったが、青森訛りの残る訥々とした語り口調は、騎手時代と少しも変わっていない。
「あれはね、自分にとって、一世一代の競馬だったと思うよ。本当にね、気持ちの入った……もう、チャンスはこれしかない、そう思ったダービーだったからね」
1993年、BNWの時代
1993年5月30日、東京競馬場は17万人の大観衆で埋め尽くされた。Jリーグが華々しく開幕したこの年、バブル経済は既に崩壊していたはずだが、日本国民の心中はまだバブルの只中にあった。6年前にデビューした武豊の活躍もあり、競馬界も空前のブームに沸いていた。
柴田のライバルで共に時代をけん引した岡部幸雄騎乗のビワハヤヒデ、武のナリタタイシン、そしてダービーで初めて1番人気となった柴田のウイニングチケット。結果的に三冠を分け合うことになる3強の対決は、今でもダービー史上最も感動的なレースのひとつとして語り草になっている。
大一番を前に柴田は無言を貫いた。それまでどんな取材にも快く応じていたが、レースを1週間後に控え、各社の記者に取材拒否を通達したのだ。
「そっとしておいてくれ。終わったら何でも話すから」
伏線は4月の皐月賞にあった。1番人気で臨んだチケットは中団やや後方につけたが、持ち前の末脚は伸びず、ナリタタイシンにちぎられ4着に沈む。柴田にとっては完璧といえる展開だったが、レース前から馬に落ち着きがなかった。レース後、ソエ(管骨骨膜炎)があったことが判明し、柴田は納得する。だが、メディアからはなぜあんな競馬をしたのかと大批判を浴びる。直前の弥生賞では最後方から一気の差しで豪快に勝っていたからだった。
「だからね、俺をそっとしておいてくれ。ダービーに向かう俺にね、ああしろこうしろと言わないでくれ。その代わり終わったら何でも話すから、協力してくれって。
これほど支持される馬に乗ってダービーに行けるのは、きっと最後だろう。そこに賭ける思いを、先に吐き出してしまったら、何もなくなっちゃう気がしたんだよね。うん……魂みたいなものがね。だから、詰めて詰めて、ダービーに行きたかったんだ」
15歳で青森を出て、東京の騎手養成所に入った'64年、岡部を始め天才と称された福永洋一、真っ先にダービーを制する伊藤正徳ら「花の15期生」たちと初めて観たダービーに感動した。シンザンの優勝、スタンドの大観衆、初の東京五輪開幕に向け活気づく街と人々。
「あの大観衆の前でダービーに乗ってみたい。乗るようになったら、勝ってみたい。俺らの頃は、競馬イコールダービーだった」