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「そっとしておいてくれ」レース直前に各社一斉の取材拒否も…名騎手・柴田政人とウイニングチケットはいかに日本ダービーを制したのか?
text by
高川武将Takeyuki Takagawa
photograph byKYODO
posted2022/05/25 17:00
1993年の日本ダービーを制したウイニングチケット。右は2着のビワハヤヒデ
「運勢が良くなかったのかねぇ、ダービーのときに」
'67年、同郷の高松三太調教師の厩舎に所属し18歳でプロデビュー。3年目にダービー初騎乗(23着)、4年目に厩舎のアローエクスプレスで重賞初勝利を挙げ、その道は順風満帆に思えた。だが、突然、試練はやってくる。クラシック開幕を前に、アローの騎乗を当時の第一人者の騎手に乗り替わられるのだ。「なぜですか?」と泣いて抗議する柴田に、「俺だって本当は乗せてやりたいんだ」と苦し気に言う師匠の目も光っていた。関東の最有力馬のアローには、関東一の騎手を乗せる――馬主への配慮からだったことを柴田は痛感する。
この一件が騎手柴田政人の原点になった。
「乗り替わられない一流騎手になろう、と。若さだけで、ちゃらんぽらんだったけど、真剣に競馬に取り組むようになった」
めきめきと腕を上げ、「長距離の魔術師」と呼ばれるようになる一方で、その後もダービーとは縁のない日々が続いた。勝てる馬に恵まれなかったのだ。
直前の負傷や出走取り消しも多かった。最大の無念は'85年のミホシンザンだ。柴田も周囲も「3年連続で三冠馬が出る」と疑わなかった名馬は、ダービーを前に膝の骨折が判明する。'88年のコクサイトリプルのときは、「ダービーに勝ったら騎手をやめてもいいくらいの気持ちです」と公言。翌日、「柴田、ダービー勝ったら引退」と報道され、ファンの間に誤解を生むことにもなる。その年は3着。名騎手柴田が、'92年まで18回で3着が2回のみというのは、競馬界の七不思議でもあった。
「ダービーの頃になるといろいろ変なことが起きるんだよね。運勢が良くなかったのかねぇ、ダービーのときに」
「走らない馬、ダメな馬ばかりに跨っている、妙な男」
だが、運だけではなかった。当時、親交の深かった大先輩、野平祐二は、柴田の人間性についてこんなことを言っている。
「過去に世話になった義理とかを守ってばかりで、走らない馬、ダメな馬ばかりに跨っている、妙な男」
うんうんと頷くと、柴田は語り始めた。
「俺が人との付き合いを大事にした、お世話になった人たちを優先するところがあったんですよ。そのために、強い馬に乗れなかったことは、一杯あるんです」
例えばシンボリルドルフは、元々柴田が調教していた。北海道で初騎乗するはずだったが、早く仕上がったために調教師は新潟でデビューさせたいと言う。北海道を夏の主戦場にしていた柴田は騎乗を見送った。乗ったのは岡部。史上初の七冠馬になっていく姿を、ただ眺めているしかなかった。
「調教師から、岡部は離さねえぞって言われてね。でも、これはしようがないことだから。離せって言うわけにもいかないし(笑)。諦めるしかないよね」
義理人情を貫いた騎手人生
実は、あのナリタブライアンもそうだった。'93年の夏、大久保正陽調教師から騎乗を頼まれたが、先に依頼されていた旧知の厩舎の馬を優先した。代わりに乗った南井克巳によって、ナリタブライアンは史上に残る最強馬になっていくのだ。
もし柴田が、もっとビジネスライクに乗っていたら、どれほど勝っただろう……。
しかし、彼は淡々と言うのだった。