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「そっとしておいてくれ」レース直前に各社一斉の取材拒否も…名騎手・柴田政人とウイニングチケットはいかに日本ダービーを制したのか?
text by
高川武将Takeyuki Takagawa
photograph byKYODO
posted2022/05/25 17:00
1993年の日本ダービーを制したウイニングチケット。右は2着のビワハヤヒデ
「もっと器用に立ち回れたらなぁと思ったことも、そりゃ、ありましたよ。だけど、この世界で生きていく中で、自然と、付き合いを大事にしなきゃいけないと思ってるから。俺らの育った時代は、義理人情というものが確かにある世界だった。自分さえ良ければいいんじゃなく、他人のことも思いやりながらやっていく。俺の人生は、その信条を貫いただけですよ」
親友でもある岡部からフリー転向を勧められても「俺の性に合わない」と拒否し、師の三太が他界した後も、息子の邦雄が継いだ高松厩舎所属を最後まで貫いた。
「おい、政人、ダービー勝つ馬、乗せてやるぞ」
そんな頑なな生き方が、実はあのダービー制覇を呼び込んでいたことは、あまり知られていない。
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「おい、政人、ダービー勝つ馬、乗せてやるぞ」
調教師の伊藤雄二からいきなりそう言われたのは、'92年夏の函館でのことだ。伊藤は関西で厩舎を営んでいたが、若い頃から付き合いがあり、随分と勝たせてもらっていた。すぐさま厩舎に馬を見に行った。
「これは長距離向きのいい馬だ」
チケットとの出会いである。スターロッチ系の馬には何頭か乗っていたが、父トニービンの血が入っていたチケットはスピードタイプの兄や姉と比べて脚が長く、体型がスマートだった。函館での初騎乗は芝1200。案の定、5着に終わると、「先生、こいつは長い方がいいよ」と進言する。伊藤はすぐに次週の1700に出走を決めるが、海外遠征の入っていた柴田は乗れず、代わりに乗った横山典弘で初勝利を挙げた。
一度は断ったウイニングチケットへの騎乗
問題はそこからだった。伊藤から次走の騎乗を依頼されたが、先に決まっていた馬の調教師がどうしても認めてくれない。いや、柴田が強く断り切れなかった。その調教師にも伊藤にも恩義のある柴田は、「申し訳ありません」と引き裂かれるような思いでチケットの騎乗を断るのだ。
「もう、この馬には乗れないかもな……」
過去に繰り返した苦い思いが柴田の脳裏をよぎった。だが、「ダービーに勝たせる」と啖呵を切っていた伊藤は諦めなかった。そのレースは関東の若手だった田中勝春を乗せ、さらに次走は関西の条件のいいレースではなく、中山のホープフルSに連れてくる。全ては柴田が乗り替わりやすいように配慮してのことだった。
「あのときは本当に嬉しかった。伊藤先生が俺の気持ちを汲んでくれたのは、今でも凄いことだと思うよね」
実感を込めて、柴田はそう言った。
《後編に続く》