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2度の大震災を経験した楽天コーチ「『復興のために』とか言葉では簡単に言えますけど…」それでも確信した「がんばろう」の底力
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byKYODO
posted2022/03/11 06:00
「3.11」から11年。当時楽天の塩川達也は仙台で被災、実は1995年阪神・淡路大震災も経験していた
「外に出たら道路がめちゃくちゃになってて、近隣の区が火事で燃えているのが見えて、それがすごく怖かった。身近に亡くなった人がいなかったことが不幸中の幸いなのかもしれないけど、おばあちゃんの家とか、親戚の家が全壊して。地震の直後は連絡が取れなかったんで、みんなが避難所で生活しているって知ったのも2週間後くらいでしたから」
自宅が倒壊しなかった塩川家はその場に留まったが、ライフラインは寸断されたまま。食事にありつけず、家族が調達に奔走する。塩川も給水車に並ぶなどの手伝いに追われた。東日本大震災で物資の確保を優先したのは、この経験があったからだ。
「イチローさんがいたオリックスに、どれだけ力を与えてもらったか」
電気は約1週間、水道、ガスに至っては復旧までおよそ3カ月を擁した。震災で最も被害が大きかった神戸市のなかでも、震源地である淡路島と明石海峡大橋で繋がれた塩川が住む垂水区は、その規模が比較的、小さかったと言われている。それでも街の犠牲は、死者26名、負傷者1020名。「小さかった」と表現するのは、あまりにも無責任すぎる。
悲嘆や絶望は計り知れない。だが、強引に放り込まれた暗闇においてもなお、人間とは必ず光を見つけ出す生き物である。
塩川にとって、それが野球だった。
「がんばろうKOBE」
地元のプロ野球チーム、オリックスの旗印は負の感情を忘れさせてくれた。当時はイチローや田口壮らスター選手が多く、ファンクラブ会員の塩川も例外ではなかった。
あれから25年以上が経っても、記憶を手繰り寄せると声のトーンはすぐに上がる。
「スーパースターのイチローさんがいたオリックスに、どれだけ力を与えてもらったか。震災があった95年は『がんばろうKOBE』を謳って優勝しましたからね。あの光景は、すごく印象に残っています」
自身もプロ野球選手に…コーチの今、確信していること
それから16年。今度は自分が被災地のプロ野球選手の立場となっていた。だからこそ、言葉より雄弁に語れるものがあるのだと、塩川は知っているのである。
「自分の結果はどうだったか別として……」
自虐気味に笑い飛ばす。11年は一軍での出場はわずか4試合。この年限りで現役を引退したこともあって、95年のオリックスから与えてもらったように、自身のプレーが東北の被災者にどういった形で影響を及ぼしたのかはわからない。
だが、これだけは言える。