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2度の大震災を経験した楽天コーチ「『復興のために』とか言葉では簡単に言えますけど…」それでも確信した「がんばろう」の底力
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byKYODO
posted2022/03/11 06:00
「3.11」から11年。当時楽天の塩川達也は仙台で被災、実は1995年阪神・淡路大震災も経験していた
仙台市は最終的に死者904名、行方不明者27名、負傷者2305名。大きな犠牲を払ったが、被害状況が不明瞭だった震災直後は、目を向けるべきは数字ではなく、具体的な行動だった。
抱いた「困難を乗り越えましょう」の違和感
この街をホームとする楽天は、「がんばろう東北」を掲げ、復興を誓う。選手たちが被災地を訪問すると、被災者は困難のなか笑顔で迎え入れてくれた。地元のヒーローたちに背中を押され、復興への活力を漲らせる。そんな人も少なくなかった。
力になりたい――塩川も純粋にそう思った。しかし一方で、どうしても拭い去れない心のわだかまりがあった。
「津波だったり、東日本大震災の被害があまりにもすごすぎて。『復興のために』とか『困難を乗り越えましょう』とか、言葉では簡単に言えますけど、僕はなんか『気軽に言えないな』っていうのがすごくありました。そうやって励ますことで勇気づけられたり、頑張れる人たちはいると思います。でも、安易に言ってしまうことによって『逆に傷つけてしまうこともあるんじゃないか?』って気持ちになってしまったんですよね」
そう言えるだけの理由が、塩川にはある。
阪神・淡路大震災も被災「おばあちゃんの家とか、親戚の家が全壊して」
あの時。1995年1月17日の記憶が、塩川のなかでフラッシュバックしていた。
5時46分。
当時、小学6年生だった少年は、地面から突き上げられるような激しい縦揺れによって目が覚めた。自宅の倒壊は免れたが、食器は全て砕け散り、室内のありとあらゆるものが乱暴に佇まいを変えていた。
マグニチュード7.3、最大震度7。日本に大きな傷を残した阪神・淡路大震災。塩川はその被災者でもあった。
「トラウマみたいになっていたから」
思い出すだけで、声が沈んでしまう。