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2度の大震災を経験した楽天コーチ「『復興のために』とか言葉では簡単に言えますけど…」それでも確信した「がんばろう」の底力
posted2022/03/11 06:00
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by
KYODO
2011年3月11日。楽天の塩川達也は仙台にいた。一軍は兵庫・明石、二軍は埼玉・戸田で実戦を行っていたなか地元に残留していたのは、前年のシーズンオフに手術した右ひじのリハビリのためだった。
14時46分。
本拠地のウエートルームでトレーニングに励んでいた塩川は、建物の横揺れをすぐに感知した。「あ、地震や」。最初はその程度だった。ところが震動は瞬く間に強度を増し、誰かが「近くの柱に捕まれ!」と叫ぶが、その声が「逃げろ!」と危機をはらんだ怒号に変わるまですぐだった。塩川らリハビリ組の選手、球団スタッフたちは這うようにウエートルームから外へ飛び出し、落下物での被害が少ないであろう敷地内の広場まで避難した。
恐怖は、今も蘇る。
「最初は震度2、3くらいやったと思うんです。それが突然、かなりの強さになって。外に出て球場の照明を見たら、倒れそうなくらい揺れていました。とにかくものすごい横揺れだったことを記憶しています」
ライフラインの寸断…食料確保に走った
電気がすぐに止まり、携帯電話の回線がパンク状態でインターネットも繋がらなくなった。激しい揺れが収まると、各々が家族などへの安否確認や避難などに追われ、塩川もすぐに動く。真っ先に自宅へ向かい、衣類など最低限の必需品を持ち出すと、コンビニへ食料確保に走った。
時間が経つにつれ、被害の全容が徐々に明らかになっていく。震源地は三陸沖でマグニチュードは9.0。最大震度は7で、仙台市は6強だったこと。岩手、宮城、福島の沿岸部の町が大津波に飲み込まれる光景をテレビで目の当たりにし、放心状態となった。