酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
落合博満が心酔した「オレは管理野球をしない」監督・稲尾和久は“昭和なのに今っぽい”?…金田正一監督とは「遺恨試合」も
posted2022/02/23 11:02
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Sankei Shimbun
後でタイ記録になったとはいえ、空前の42勝を挙げた稲尾和久は、1961年オフは、当然ながら強気の年俸交渉を行った。西鉄の西亦次郎オーナーに「史上最多勝なんだから、球界最高年俸の金田正一を上回る年俸を」と迫った。
金田の年俸は1800万円だった。しかし西オーナーは「そのうち300万円は10年選手功労金だから実質的に1500万円だ。これに40万円足して1540万円でどうだ」と交渉。稲尾はこれで手を打った。
しかし西鉄ライオンズの経営はすでに傾きかけていた。1962年オフには年俸削減のため主力の豊田泰光を国鉄に放出する。
選手の年俸高騰に加えて新人獲得競争でも、札束が舞い飛んでいた。西オーナーは天井知らずの獲得競争に歯止めをかけるために1964年に「ドラフト制度の導入」を提唱、巨人と阪神は難色を示したが、最終的に12球団の賛同を得て翌1965年から導入されることとなった。
“勤続疲労”があっても25勝、そして28勝で最多勝
稲尾は1962年は前年の疲労もあって25勝に終わるが、63年は持ち直して28勝、4度目の最多勝を獲得した。この年、中西太選手兼任監督のもと、西鉄ライオンズは5年ぶり、そして西鉄としては最後のリーグ優勝を成し遂げた。
この年8月初旬、ブルペンで投げていた稲尾の球が突然、ワンバウンドした。抜群の制球力を誇る稲尾にしては珍しい。ブルペン捕手の浦田直治は首を傾げた。実は稲尾はこの時、肩の痛みを感じていたのだ。9月に入ると常に右肩に鈍痛を感じるようになるが、稲尾はそれを押して投げ続け、日本シリーズでは敗れたものの巨人相手に2完投勝利を挙げた。
このオフには王貞治、長嶋茂雄、野村克也とともにエールフランスの招待でヨーロッパ旅行に出かける。酒豪の稲尾は、これも酒豪の王貞治と共に旅先で豪快に遊んだが帰国前に発熱し、帰国後入院。この入院中の検査で肩の損耗が明らかになった。
32歳での引退、「黒い霧事件」後の監督就任
翌64年は6試合しか登板できず0勝。65年は復活するものの13勝、66年は11勝。往年の力は戻らず、1969年限りで引退する。32歳だった。
当時のライオンズの評伝、記事などを読んでいてしみじみ感じるのは、スポーツ選手を取り巻く環境の違いだ。