酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
落合博満が心酔した「オレは管理野球をしない」監督・稲尾和久は“昭和なのに今っぽい”?…金田正一監督とは「遺恨試合」も
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph bySankei Shimbun
posted2022/02/23 11:02
ロッテ時代、村田兆治を指導する稲尾監督。落合博満も心酔した人間性だったという
西鉄ライオンズは「野武士集団」と言われ、グラウンドを出れば豪遊した。稲尾は大下弘から「遊びの手ほどき」を受けたとされる。「ライオンズ遊び人番付、東横綱」と言われた大下は、まだ十代の稲尾を遊郭に誘ったという。
余談であるが――稲尾の高校の先輩、河村英文の著書によると、西鉄の若手選手たちは、東京の定宿である後楽園球場近くの大黒屋旅館では、同宿していた修学旅行の女子高生の女風呂を大挙して覗きにいったという。今なら大スキャンダルになったのではないか。
宿舎にもベンチにもたばこのにおいが立ち込め、夜中まで浴びるほど飲んだ選手たちは、二日酔いの赤い顔でグラウンドに姿を現した。
三原脩監督は「女はいいが、酒は飲みすぎるな」と諭したという。
「良く遊び、良く稼ぐ」は西鉄ライオンズのチームカラーではあったが、裏社会の人間との交流も多く、1969年に西鉄は日本プロ野球最大のスキャンダルである「黒い霧事件」を起こす。当初は一人の投手が敗退行為を行っていたとされたが、メディアの追及によって、複数の選手が野球賭博絡みの八百長に関与していることが発覚。西鉄は投手4人が永久追放処分、野手2人が1年間の野球活動停止になるなど、壊滅的な打撃を受けた。
プレイングマネージャーだった中西太監督は責任をとって辞任。選手としても引退する。
翌1970年には前年、引退したばかりの稲尾和久が監督に就任した。
損な役回りの中で東尾修をエースに育てた
しかしここから西鉄は3年連続最下位。球団の信用は失墜し、1973年に西鉄は球団を身売りし太平洋クラブライオンズとなる。稲尾はなおも2年間監督を務める。ライオンズは多少持ち直し、4位、4位だった。勝てる見込みもない中で、稲尾は損な役回りを引き受けたのだ。
「5年間の監督生活でいいことは一つもなかった」と稲尾は述懐している。
西鉄と日本シリーズで何度も好勝負を演じた巨人の川上哲治監督は、稲尾を励ました。1971年、西鉄と巨人は2人対3人の大型トレードを行ったが、これは川上が西鉄を支援するために行ったという。川上は稲尾に「名選手は名選手を作り出すものだ」とも言った。稲尾は黒い霧事件の戦力ダウンを補うために東尾修を抜擢。東尾を一人前の投手に育て上げたのは、入団時から稲尾を支援した高校の先輩、河村英文投手コーチだった。
稲尾は現役時代「サイ」と呼ばれた。親しい仲間は「サイちゃん」と呼んだ。