酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
落合博満が心酔した「オレは管理野球をしない」監督・稲尾和久は“昭和なのに今っぽい”?…金田正一監督とは「遺恨試合」も
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph bySankei Shimbun
posted2022/02/23 11:02
ロッテ時代、村田兆治を指導する稲尾監督。落合博満も心酔した人間性だったという
この会話で、稲尾は中西太、豊田泰光と同じ匂いを感じ、「この男は使える」と思ったという。そして落合は稲尾をボスとして終生慕うことになるのだ。
「サンデー兆治」が生まれたトミー・ジョン手術秘話
ロッテのエース村田兆治は、稲尾が監督になる2年前の1982年、右ひじを損傷、翌年にフランク・ジョーブ博士の執刀で「トミー・ジョン手術」を受けている。約2年のリハビリを経て、村田は稲尾監督2年目の1985年に「奇跡のカムバック」を果たし、開幕から11連勝。日曜ごとに登板することが多かったので「サンデー兆治」と呼ばれ、大きな話題となった。
稲尾監督は「故障を恐れて100球で降板するようなサラリーマンみたいな投球をして何が面白いのだろう」と思い、村田には「故障してもまた投げられることを実証してほしい」と願ってマウンドに上げていた。
ジョーブ博士には「村田は1試合100球まで」と言われていた。初勝利がかかった4月14日の西武戦、100球が迫ったので稲尾が降板を告げようとすると村田は「壊れても、これだけ投げられたら本望です」と言ってマウンドを降りなかった。結局村田は155球を投げて完投し、復帰初勝利を挙げた。
「やんちゃ」さを求めつつ、柔軟性もあった
ある試合で村田がピンチになったとき、マウンドに行った稲尾は「ここを抑えたら、こんなステーキをおごるぞ」と言った。昔、先輩の川崎徳次に言われた言葉を思い出したのだ。しかし村田は「その肉の量じゃ、バケツ一杯の野菜も食べないと」と言った。
稲尾は村田兆治にも「野武士のにおい」を感じていたが同時に「時代は変わった」と思ったという。
伝説の大投手・稲尾和久は、引退してからも「栄光の日々」のことを強く思い、今の選手にも同様のワイルドさ、良い意味での「やんちゃさ」を求めていた。しかし指導者稲尾和久は、それだけの人間ではなかった。トミー・ジョン明けの村田は中6日で投げさせたし、球数にも留意していた。野球の「進化」も十分理解して、それに対応する柔軟さ、賢明さを持ち合わせていたのだ。
村田兆治の「中6日」「100球」という投球パターンは、その後のNPB先発投手のスタンダードになっていく。
ロッテ時代の稲尾監督は2位、2位、4位。リーグ優勝はできず。九州への球団移転の話が立ち消え、チームも慰留しなかったので、3シーズンで辞任した。落合博満は稲尾の退団を不満としてトレードを要求、中日に移籍した。
以後、稲尾は解説者として再び野球ファンの耳を楽しませたが、2007年、70歳で逝去する。
稲尾は、現役時代の空前の大記録に加えて、器の大きい魅力的な性格で、多くの野球人、ファンを引き付けた。没後の2012年、西鉄ライオンズのはるかな末裔、埼玉西武ライオンズは稲尾和久の背番号「24」を永久欠番にした。
稲尾和久の伝説は、今もライオンズファンの胸に生きている。<第1回、第2回から続く>
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