酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
ドラフト制前の“獲得競争とカネ”「鉄腕・稲尾和久」の意外と知らない伝説 1年目キャンプ「投手失格」で打撃投手になったが…
posted2022/02/23 11:00
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
BUNGEISHUNJU
稲尾和久は1937年6月10日生まれ。野村克也、長嶋茂雄よりも2学年下、王貞治、張本勲よりも3学年上。筆者は野村、長嶋、王、張本は野球場でプレーする姿を生で見ているが、稲尾和久の選手時代は知らない。同世代の選手よりもかなり早く1969年に引退しているからだ。
しかも2007年には世を去っている。没後15年、稲尾和久とはどんな野球人だったのか、追いかけてみたい。
稲尾は温泉で有名な大分県別府市の生まれで、7人兄弟の末っ子。生家は漁師で8歳から父の船に乗って漁に出ていた。昭和の野球本には、同郷の大横綱・双葉山定次とともに「子どものころから漁に出て、波に揺られて粘り強い下半身になった」と書かれていた。自伝によれば、稲尾の父・久作は村相撲で巡業に来た若き日の双葉山と対戦したことがあるという。
父・久作は、中学を卒業すれば和久を漁師にするつもりだった。しかし中学ですでに捕手として別府で名を知られる存在になっていた和久は「高校で野球をやらせてほしい」と父を説得し、高校進学を認めてもらった。
全くの無名校から球界に名を残す鉄腕に
別府には3つの高校があったが、私学の自由ヶ丘高校(現明豊高校)は学費が高く、別府鶴見丘高校は進学校で学力的に難しいということで別府緑丘高校に進むこととなった。
長嶋茂雄、野村克也など高校時代、甲子園に縁がなかった大選手はたくさんいるが、別府緑丘高校ほどの無名校も珍しい。甲子園出場は一度もなく、1967年を最後に甲子園の予選にも出場していない。
現在は大分県立芸術緑丘高校と名前を変え、音楽科と美術科の2つのコースで芸術家、教育者を輩出する芸術系の高校となっている。卒業生にはリリー・フランキーなどアーティスト、画家、美術家の名前が並ぶ。この学校から日本野球屈指の大選手が出たのだ。
ただ――稲尾の4学年上に、河村久文という好投手がいた。河村は1950年、夏の甲子園の予選で大分県大会の準々決勝まで勝ち進み、東洋高圧大牟田を経て西鉄ライオンズに入団。後年、河村は、稲尾の野球人生に大きな影響を与えることになる。
“南海の敏腕スカウト”からの送金と契約額とは
稲尾は高校入学当初も捕手だったが、首藤成男監督が「お前が球が一番速い」と投手に指名。2年生でエースとなり、3年時の甲子園予選は準決勝で阿南準郎(のち広島監督)がいる佐伯鶴城に負けたものの、県内では知られる存在になる。
真っ先に声をかけたのは南海ホークスだった。