プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
【没後23年】ジャイアント馬場「私、プロレスを独占させてもらいます。」ポスター撮影のカメラマンが語る“イタズラ好きの馬場さん”
posted2022/01/31 11:01
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
1月31日はジャイアント馬場の命日だ。早いもので、1999年に亡くなって丸23年が経った。
馬場の全盛期は、1955年生まれの筆者が10~15歳くらいの期間だった。16文キックと脳天唐竹割りが代名詞で、ヤシの実割りと呼ばれたココナッツ・クラッシュも馬場ならではの豪快さがあった。後には32文ロケット砲というドロップキックも使用した。209センチ、145キロ(ピーク時)の巨体が宙を舞った。
「あの馬場のドロップキックで、東京写真記者協会の年間スポーツ部門で賞をもらったなあ」とスポニチの向田裕司写真記者は言った。そのくらい馬場のドロップキックは世間でも話題だったということだ。
馬場の靴のサイズは「16文」ではなかった
馬場は1960年9月にデビューしたが、翌年にはアメリカ武者修行に出かけることになる。コーチとなったフレッド・アトキンスは、馬場が「どれだけやればいいんだ」と思うほどの練習を強いたという。馬場は言われるがままアトキンスが住んでいたカナダのオンタリオ湖畔をひたすら走りまくり、ロープを使った綱引きを繰り返した。こうしてアトキンスによって鍛え上げられた馬場の脚力は、当時のプロレス界でも群を抜いていた。
アトキンスは力道山時代、1963年の第5回ワールドリーグ戦で来日しているが、そのシリーズの後に行われた力道山vsザ・デストロイヤーでレフェリーを務めたときの方が私は記憶に残っている。
晩年のロープやコーナーのターンバックルを背負った16文キックしか知らない人には、全盛期の馬場の16文キックの凄さはわからないだろう。馬場の右の軸足が1メートル近くリングをスライドして前に向かって行く。そして突き上げた左の足裏が相手の顔面を捕らえる。私はそんなスローモーション映像を見て驚愕した記憶がある。相手が大男でも、決してその体重に押されることはなかった。
今では靴のサイズを「文」で数える人などいないが、昭和30年代から40年の初めは靴を買いに行くと「何文?」と聞かれた。それが普通だった。10文とか10文半とか言っていた。10文は24センチだ。
16文キックなんだから、馬場の靴が本当に16文かというとそれは違う。あれは馬場が靴のサイズを聞かれて新聞記者に「16」とだけ答えたが、これはアメリカのサイズだった。もし日本の16文だと38.4センチになるが、アメリカのサイズ16なら34センチだ。