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【没後23年】ジャイアント馬場「私、プロレスを独占させてもらいます。」ポスター撮影のカメラマンが語る“イタズラ好きの馬場さん” 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/01/31 11:01

【没後23年】ジャイアント馬場「私、プロレスを独占させてもらいます。」ポスター撮影のカメラマンが語る“イタズラ好きの馬場さん”<Number Web> photograph by Essei Hara

筆者が撮影した全日本プロレスのポスター「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます。」のアザーカット

 ブームだったボウリング場の貸し靴の表記がアメリカのサイズだったことを覚えている人もいるだろう。記者の勘違いで馬場のキックは16文キックと命名されたが、大きい方がいいだろうということでそのままになった。

「10億円相当」のオファーを蹴って日本に帰還

 力道山が1963年12月に死去すると、豊登の中継ぎを経て日本マットで馬場が台頭してくる。馬場はキャリアわずか3年だったが、アメリカで経験を積んでビッグネームに成長していた。1964年2月、デトロイトで鉄人ルー・テーズのNWA世界王座、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで人間発電所ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界王座、ロサンゼルスではフレッド・ブラッシーのWWA世界王座に連続挑戦して話題になった。ショウヘイ・ババとかビッグ・ババともコールされたが、ニューヨークではババ・ザ・ジャイアントのリングネームだった。

 ニューヨーク市内に貼り出された馬場の試合のポスターを見た映画評論家の淀川長治さんが「日本人もついにここまで来たか」と感銘を受けたという逸話もある。それほど馬場のアメリカにおけるポジションはセンセーショナルだった。

 入場料金がアメリカで1ドルから5ドルの時代に、馬場はアメリカに残れば年間27万ドル以上という破格の報酬の提示を受けた。1ドル=360円だったから、当時の換算レートで約1億円。今の価値なら10億円くらいだったのかもしれない。だが、馬場は日本プロレスのエースとして日本に帰ってきた。

 力道山一代限りとして封印されたインターナショナル選手権が復活して、馬場は1965年11月、生傷男ディック・ザ・ブルーザーを倒して王座に就くと、ルー・テーズや鉄の爪フリッツ・フォン・エリック、ザ・デストロイヤー、荒法師ジン・キニスキ―、サンマルチノと言った強豪と防衛戦を続けて、黒い魔人ボボ・ブラジルに敗れるまで21回も連続防衛した。日本テレビの朝のスポーツ・ニュースでは、馬場の防衛戦の様子が報道されていた。

 すぐにブラジルから王座を奪還後、今度はキニスキーに敗れるまで18回防衛し、馬場時代を築いた。キニスキーを追いかけてロサンゼルスで王座返り咲きを果たした馬場は10回の王座防衛を果たした後、日本プロレスを離れるため1972年9月に王座を返上する。それまでの約7年間、馬場はほぼ常にインターナショナル選手権者だった。

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