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電車内でのマナー「飲酒やおしゃべりに気を付けましょう」スキー列車に若者殺到のブームも…日本人はいつからスキーに行かなくなった?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byMasashi Soiri
posted2022/02/02 17:01
上越国際スキー場前駅、1997年にスキーシーズンのみ営業する臨時駅として開業した
『私をスキーに連れてって』からシュプール号が消えるまで
さて、そんな60~70年代のスキーブームを経て、赤字にあえぐ国鉄にとってスキー列車は確実に収益が見込める“ドル箱”になった。そうして国鉄からJRへと移り変わる80年代にはバブル景気がやってきた。原田知世と三上博史の『私をスキーに連れてって』の時代、史上最大のスキーブーム到来、である。このブームを牽引したのは1982年に開通した上越新幹線……と言いたいところだが、少し事情が違う。
バブル期のスキーブームで輸送を担った主役は1985年に全通した関越自動車道。だいたいバブルなわけで、学生たちもマイカーを駆って東京からスキー場にやってくることもできる時代になった。所要時間も高速道路のおかげで圧倒的に短縮される。新幹線でもいいけれど、どうしても輸送量に限界がある鉄道よりはクルマの時代になっていたのだ。
もちろん空前のスキーブームだったわけで、鉄道を利用する人も少なからずいた。だからスキー客向けの臨時列車は上越新幹線を中心に運転され、新幹線開通で列車の本数が少なくなったスキを利用して、西武グループの総帥・堤義明肝いりでスキー客専用の臨時列車を走らせたこともあった。
この臨時列車は、国鉄末期からJR時代にかけて「シュプール号」として発展する。それまでのスキー列車は、あくまでも一般的な臨時列車に過ぎず、スキー客以外も利用することができた。それに対してシュプール号は旅行商品として発売されるいわば“ツアーきっぷ”のようなもので、スキー客しか乗ることができない。スキー客と一般客を分けて、より快適に移動できるようにしたというわけだ。そして、そんなバブル&スキーブームの中で、ガーラ湯沢も誕生したのである。
ところが、ご存知の通りバブルはあっさりはじけ、90年代後半にはスキーブームは過去のものになっていた。JR各社のシュプール号の運転本数は少しずつ減っていき、2005年を最後にシュプール号は姿を消している。
「バブル期スキーヤー」と「外国人観光客」
スキー場駅のまわりに建ち並ぶ民宿やロッジのような施設は、戦後の2度のブームに沸き立って、21世紀に入って長らく厳しい季節を過ごすことになった。上越国際スキー場前駅周辺のロッジがどことなく昭和感たっぷりなのは、こうした歴史を刻んできた証といっていい。
ただ、2010年代以降は少し上向きになっていたようだ。バブル期のスキーヤーたちが家族連れでゲレンデに戻ってくるようになったのがひとつの理由、そしてもうひとつは外国人観光客だ。ブームというほどではないが、ガーラ湯沢もそれなりに賑わうようになったし、スキー場の駐車場にもたくさんのクルマがやってくるようになった。ただ、新幹線直結のガーラ湯沢をのぞけば、だいたいのスキー場には鉄道ではなくクルマでやってくる人の方が圧倒的に多いのだろう。
上越国際スキー場前駅のすぐ目の前の駐車場には、たくさんのクルマが停まっていた。いまは外国人はいないので、若者のグループか家族連れがほとんど。駅前、つまりスキー場にいちばん近い駐車場は満車になっていたようで、駅前にはクルマの誘導員の姿もあった。町中の駐車場はガラガラだったが、これはコロナ禍だからなのか、それとは関係ないものなのかはわからない。
いずれにしても、しばらくしてやってきた上越線の各駅停車から降りてくるスキー客はほとんどいない。かつて隆盛を誇ったスキー列車はほとんど消え失せて、ガーラ湯沢駅行きの上越新幹線臨時列車が最後の輝きなのだ。スキー場という非日常の白銀の世界にも、厳然たる時代の流れという現実が広がっているのである。
(写真=鼠入昌史)