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電車内でのマナー「飲酒やおしゃべりに気を付けましょう」スキー列車に若者殺到のブームも…日本人はいつからスキーに行かなくなった? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph byMasashi Soiri

posted2022/02/02 17:01

電車内でのマナー「飲酒やおしゃべりに気を付けましょう」スキー列車に若者殺到のブームも…日本人はいつからスキーに行かなくなった?<Number Web> photograph by Masashi Soiri

上越国際スキー場前駅、1997年にスキーシーズンのみ営業する臨時駅として開業した

 都会からスキー場に向かう列車が走り始めたのは、なんと戦前にさかのぼる。全日本スキー選手権がはじまった大正の終わりから昭和のはじめにかけて、すでに東京から信越方面(つまり信越本線方面)へスキー客のための臨時列車が運転されている。

 そして1931年に上越線が全通すると、戦前のスキーブームは絶頂に達する。国鉄がスキー教室を開いたりスキー場の降雪量を発表しており、国鉄にとってもスキー輸送は大きな収入源になっていたようだ。

 戦争の時代に入り、1937~1938年の冬にかけては“時局の必然”としてスキー列車はいったん廃止となる。レジャーを目的とした旅行など、“不要不急”として許されない時代になったのだ。しかしスキー熱が冷めることはなかったようで、スキー場に向かう上越線の列車は毎年すし詰め。国鉄も彼らの輸送に伴う収入を簡単に諦めたわけではなく、車両の増結や割引サービスによって対応しているくらいだ。1940~1941年の冬には、再びスキー列車が運転されている。

 さすがに太平洋戦争真っ最中にはスキー列車が蘇ることはなかったが、戦後は1950年1月に復活。上野~越後湯沢間に週末限定の夜行列車「銀嶺」が運転され、冬の上越線にふたたびスキー客の賑わいが戻る。

スキー列車に若者が殺到

 それからしばらくは、上越線の複線化(つまり輸送量アップ)などもあって、“夜行列車に乗ってスキー場へ”という時代が続く。上越線以外を含めると、1960~1970年代はじめにかけて、全国で毎冬3000本ものスキー列車が運転されていた。そしてその多くが文字通りのすし詰め満員。なので、当時はいかにスキー場まで楽にたどり着けるかどうかが大きな課題になっていたようだ。

 たとえば、雑誌『旅』の1960年1月号には「年末年始はスキー場までの乗物が問題だ」と題する特集が組まれ、どの列車を選べば空いているのか、座ることができるのか、といったことが書かれている。また、1962年に発売された『あなたのスキー手帖』というスキーヤー向けの書籍にも、列車の選び方のコツがとうとうと語られている。

 たとえば、多くのスキーヤーは夜行列車でゲレンデに向かい、その日のうちに家に帰る。なので、逆に朝の列車で向かって夜行で帰るというプランを提唱したりしている。上越線ならば「上野発十七時五〇分、急行『ゆきぐに』新潟行が便利でしょう」とおすすめ列車を具体的に紹介したりもしている。夜行バスも運行がはじまったばかりで、若いスキーヤーたちが飛行機で北海道に繰り出すほど航空運賃は安くなかったし、マイカーなどという時代でもない。みながバス、そして鉄道のスキー列車に殺到した時代なのである。上越線沿線、スキー場のまわりに民宿などができたのもこの頃だ。

 ちなみに、この『あなたのスキー手帖』には列車の中でのマナーについても書かれていて、酒を飲んだりおしゃべりをしてはいけないという法律はないけれど周りの人たちのペースに合わせた行動をとりましょう、スキー板は周囲の座席の人と話し合って整理して荷棚に乗せましょう、などとある。半世紀以上も前のことだが、たいして人間は成長していない。

【次ページ】 『私をスキーに連れてって』からシュプール号が消えるまで

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