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大迫傑と同期の箱根ランナーが、大学時代出会った妻とともに長野で農業をしているワケ「大迫の存在が影響してるんです」
posted2022/01/02 11:05
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph by
AFLO SPORT
人は移動する生き物だという。
最近、ある新聞で組まれた特集だった。汎地球規模で移動して、気候変動や異なる生態環境を克服して生き抜いてきたのは人しかいない、そうだ。
兵庫、東京、宮崎、長野。人と関わって、肉体とも相談し、今は自然や野菜作りと折り合おうとしている。ダイナミックに“移動”した長距離ランナー、志方文典(30歳)の話をしたい。
高校トップレベルの力を身につけ、いざ早大へ
早大が三冠を果たしたのが2010年。3つ目の箱根駅伝は東京オリンピックのマラソンで6位になった大迫傑が1年生で1区を任された。54秒の大差をつけてトップで襷リレーしてペースを作った大会だった。
そこから遡ること3カ月。10月の出雲の5区と11月の伊勢の同じく5区を走ったのが大迫と同期、スポーツ推薦で入学した志方だった。それぞれ区間5位と1位で優勝に貢献した。
志方は兵庫県加西市の生まれ。小学5年生のマラソン大会で2位になった。全国大会に出ている地元の中学に進んで陸上部に入部した。順調に力をつけ2年で県大会に出場。3年時は全国大会に出るまでになった。1500mは予選落ちしたものの、3000mは全国で11位になる。このレースで3位に入ったのが大迫だった。
中学3年(2007年)の冬、広島で開催された都道府県駅伝に選ばれた。中学生区間の2区を走って区間賞。襷をつないだのは当時、早大の竹澤健介、チームメイトにはその後、早大に入学する八木勇樹、中山卓也がいた。この先輩たちに続いてみたい。志方の“移動人生”を運命づけた優勝だったかもしれない。
志方はその後、伝統校の西脇工に入学。12月の京都での高校駅伝はチームとして高1で3位、2年が7位、3年で2位だった。個人では3年連続3区を走り、3年の時は日本人トップ(全体3位)だった。
こうして高校ではトップレベルの力を蓄える。そして早大の渡辺康幸監督(当時)が勧誘に来てくれて、思いを実現させる。
しかし、兵庫から東京に“移動”して競技人生は暗転していく。
チームの優勝、大迫の衝撃デビューの裏で志方を苦しめたケガ
大学1年、出雲、伊勢までは大迫とも対等、高め合った。しかし最大の目標の箱根は、直前の骨折で走れなかったことが、後々も引きずることになる。
志方を欠いても、早大は箱根で18年ぶりに優勝した。大迫は衝撃のデビューを飾る一方で、ここから志方の苦悩が始まった。骨折は治っても、通称“ぬけぬけ病”との長い付き合いが始まるのだ。