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「キャプテン翼」のモデルは静岡に実在した? 日本サッカー冬の時代に種をまいた《伝説の小学校先生》と「全少」開催秘話
text by
出嶋剛Takeshi Dejima
photograph byTakuya Sugiyama
posted2021/10/04 11:01
サッカーマンガの金字塔「キャプテン翼」。この名作が生まれた背景には静岡のサッカー事情などが絡み合っている
堀田氏が当時の小野卓爾・日本サッカー協会専務理事に相談すると「グランドに砂を撒いて固めろ。金はいくら掛かってもいい」と助け船を出してくれた。ダンプカーで砂を運び、田中氏と懸命に作業して一面は使えるようになった。当時は専門店でもすぐにはコーナーフラッグを買えなかった。近くの工事現場で旗を借り、代替品とする急ごしらえの会場だった。あと一面は新たに学校のグラウンドを借りることで代えた。
大会は日本サッカー協会が主催となり全日本少年サッカー大会に名称が変わる1977年からよみうりランドで開催された。大澤氏が急場でグラウンドをこしらえてしのいだ第2回全国サッカー・スポーツ少年団大会で町田市に立派なメーン会場ができていれば、よみうりランドの利用は俎上に上がらず、子どもたちの憧れの場所となることはなかったかもしれない。
コンビプレーを得意とした双子の立花兄弟が、京王よみうりランド駅のホームでパス交換をするキャプテン翼の名シーンも生まれなかったはずだ。
「全少」は現在、「JFA全日本U-12(12歳以下)サッカー選手権大会」となり、21年大会は12月に鹿児島で開催される。1967年当時からはボールやゴールのサイズが小さくなり、11人制から8人制に変わった。子どもへの体の負担や成長に適したルールを試行錯誤してきた結果だ。
「サッカー協会と随分ぶつかったよ」
この過程で、大澤氏は「サッカー協会と随分ぶつかったよ」と笑う。特に岡野俊一郎会長とは揉めたが、日本スポーツ史に残る重鎮にも一歩も引かなかった。
サッカー協会が普及に本腰になる前から、堀田氏や田中氏、綾部氏ら信念を持つ仲間と共に、少年サッカーに心血を捧げた自負があったからだ。もちろん変化を受け入れたこともある。「全てが我々の時代と一緒というのはおかしい話。それは少年サッカーがいい方向に来ているということだな」と現在も温かく大会を見守っている。
キャプテン翼は今も続編がある。スペイン1部リーグの強豪バルセロナに所属する大空翼はW杯優勝を目指す戦いを続けている。現実でも俊英が次々と欧州のクラブに渡り、漫画で描かれる世界に近づきつつある。日本がW杯を手にするのはキャプテン翼が先か、現実が先か。夢に向けた戦いを、次代を担う子どもたちが見つめている。