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「キャプテン翼」のモデルは静岡に実在した? 日本サッカー冬の時代に種をまいた《伝説の小学校先生》と「全少」開催秘話
posted2021/10/04 11:01
text by
出嶋剛Takeshi Dejima
photograph by
Takuya Sugiyama
子どもにサッカーの魅力を伝え、競技を始めてもらう。2021年9月に100周年の節目を迎えた日本サッカー協会が、次の100年を望む上で欠かせないのが普及だ。少子高齢化で娯楽も多様化した時代ながら、サッカーに取り組む少年と少女を増やさなければならない。裾野を広げなければ、ピラミッドの頂点である日本代表の世界における立ち位置は高くならないだろう。
反町康治技術委員長は就任に際し、代表強化、育成、指導者養成という技術委員会の3本柱に普及を加えて4本柱とすることを掲げた。それほど切実であり、競技団体にとっては永遠と言えるテーマだ。
現在は押しも押されもせぬ人気スポーツとなったが、それはここ30年程度の話。1968年メキシコ五輪の銅メダルで一時的なブームが起きた後は「冬の時代」が長く続いた。その寒風の中で種を蒔く人がいなければ、1993年のJリーグ開幕に伴う浮揚はなかった。
7年で競技人口約13万人増の「キャプ翼」効果
1981年、マイナー競技だったサッカーに劇的な変化が起こった。漫画「キャプテン翼」の連載がスタートしたのだ。
連載開始時の4種(小学生年代)の登録者数は11万9370人。連載が終わった1988年には24万6037人に増えていた。当時はW杯どころか五輪にも遠ざかっていた。「冬の真っ只中」と考えれば驚異的な伸びだ。
物語は主人公の大空翼が静岡県の小学校に転入するところから始まる。地元ライバルらと切磋琢磨し、選抜チームを結成して「よみうりランド」で行われる全日本少年サッカー大会を制覇。中学生になると世界を目指して戦うようになった。
この設定が秀逸で、夢物語の中にもリアリティーがあった。なぜなら、既にこの頃の静岡は「サッカーの王国」になり、世界を狙う気風があったからだ。
半世紀以上前は「校庭でボール蹴り禁止」の校則も
大空翼が生まれる土壌をつくったのは小学校教諭、堀田哲爾氏(故人)だ。