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「キャプテン翼」のモデルは静岡に実在した? 日本サッカー冬の時代に種をまいた《伝説の小学校先生》と「全少」開催秘話
text by
出嶋剛Takeshi Dejima
photograph byTakuya Sugiyama
posted2021/10/04 11:01
サッカーマンガの金字塔「キャプテン翼」。この名作が生まれた背景には静岡のサッカー事情などが絡み合っている
全日本少年サッカー大会は壮絶な戦いの連続だった。心臓病を抱える天才プレーヤー三杉淳は人生最後の試合になってもいいと覚悟して翼との戦いに臨み、母子家庭で家計を助けたかった長男・日向小次郎は中学以降の学費が免除される強豪校のスカウトを勝ち取るために相手をケガさせることを厭わず優勝を狙った。翼も若林も、故障を押して優勝を勝ち取った。
小学生がここまでやるかと思うが、不思議なまでに熱量があった。現代では賛否両論もあるだろうが、少なくとも当時は「サッカーは子どもがここまでのめり込む魅力があるのか」と鮮烈な印象を残した。
「全少」で親しまれ、翼たちが躍動した舞台をつくったのは国士舘大の大澤英雄理事長だ。前身の全国サッカー・スポーツ少年団大会は1967年にスタート。当時は小学校単位の県外での対抗戦は禁止されていたが、東京五輪の遺産であるスポーツ少年団だけは越境が認められていた。
「小学校の頃から勝ち負け、勝つ喜びを教えたい」
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堀田氏のように普及に情熱を注いでいた田中純二氏(故人)が「少年団」の名を借りることで日本一を決める大会を仕立て、山梨県の本栖湖で第1回を実施。田中氏や堀田氏と知己の大澤氏は、本格的に全国大会化した第2回大会から運営に携わった。
当時は全国大会を開いて1番を決めることへの反発もあった。大澤氏には強いこだわりがあった。
「小学生の頃から勝ち負けを教えたい。スポーツは勝て、と教えたい」
ブロックごとに開催し、各地域の1位を決めればいいじゃないか。そうすれば一番がいくつもできる。そんな声には「日本一ってのは一つです」とはね返した。
「勝つ喜びを教えたい。日本一になるためには、どれだけチームが一つにならないといけないか。勝負にこだわることで覚えることがある」(大澤氏)
静岡ではいがみ合っていた大空翼と若林源三が選抜チームで力を合わせたような構図だ。
畑を掘り返しただけのようなグラウンド
ただ、一からつくる全国大会は想像を絶する苦労があった。
開催地は東京。最大の難関はグラウンドの確保だった。いくつか小学校の校庭を借りるめどはつけた。問題は2面をつくるメーン会場だ。町田市に場所を確保し、グラウンドとして使えるように整えるとの確約も得た。だが、大澤氏と田中氏が視察に行くとラインが引いてあるだけの平らな土地が広がっていた。ゴールもコーナーフラッグもない。ピッチに足を踏み入れると、ずぶずぶと足が埋まった。
「畑を掘り返しただけだったんじゃないかと思う。とても全国大会ができるグラウンドじゃなかった」
大会は2日後。血の気が引いた。