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日本スケボー界のレジェンドに聞く“堀米雄斗はどれだけスゴイ?”「修行というか、鍛錬の極みと言ってもいいレベル」
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph byAFLO
posted2021/08/26 11:05
堀米雄斗ら日本勢による東京五輪の大活躍で注目を集めたスケートボード。日本のレジェンドには“五輪のスケートボード競技”はどう見えたのだろうか?
ただし、このオーバーホルザーは偶然五輪会場にやってきたただのスケート好きのおっちゃんではない。南アフリカで20年前にNPOを立ち上げ、同国内でスケートボードを通じて恵まれない子供たちへの支援と競技の普及活動に汗を流してきた人物だった。そんな彼の経歴を知ったときに、岡田はあるスケーターのことを思い出したという。
「よく滑っていた地元の世田谷公園に増田力也くんというスケーターがいるんです。彼はそこで10年かけてスクールをやって、行政とも長年話し合って、ついに世田谷公園にパークを作ったんですよ。それを聞いた時にそういう貢献の仕方もあるんだなと思ったんです。その時と似た心境になりましたね」
岡田は自らが世界で名を売り活躍することが、日本のスケートシーンを広げ、日本人スケーターの地位向上に繋がると思って活動を続けてきた。一方で地域に根付いて草の根レベルでスケートボードを広めていこうと取り組む人たちもいて、彼らも彼らの成果を出している。
「そこに優劣はないというか、みんなそれぞれのポジションで何かを形作る。10年単位の時間をかけて、力也くんも地元のローカルスポットをよくしよう、パークを作ろうと思って形にした。そういう活動をしている人は世界中にたくさんいて、そういう人たちの代表がオーバーホルザー選手のような感じがしました」
「五輪には逆にスケートボードっぽい多様性がある」
『ストリートリーグ』や『Xゲーム』、『VANSパークシリーズ』といったトッププロが集うコンテストだったら、オーバーホルザーは出場できなかった。46歳のスケーターが日の目を見る可能性は皆無だった。
「だからオリンピックには逆にスケートボードっぽい多様性があるなとも思ったんです。もしオリンピックがなければ僕が彼を知ることはなかったし、彼のような選手にもスポットが当たるのがオリンピックなんだっていうことも面白かった」
岡田らの時代に比べ、コンテストは巨大なショーとしてコンテンツ化され、賞金もそれだけで食べていけるほど高額になった。そこにさらに巨大なコンテストとしてオリンピックが加わった。