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“あの時”を知る竹下佳江が緊急提言「いま動かないと、取り残される」バレー界が持つべき危機感とは?
text by
田中夕子Yuko Tanaka
photograph byRyuichi Kawakubo/AFLO SPORT
posted2021/08/19 11:03
最終予選でクロアチアに敗れ、シドニー五輪出場を逃した日本代表(2000年)
セットカウント2−2で迎えたファイナルセット、日本が14−12と先にマッチポイントへ到達しながら、あと1点が取りきれず逆転負けを喫した場面。そこには中田監督が指示した攻撃パターンではない展開をセッター籾井あきが選択した、と記されていた。取材現場に居合わせたわけではなく、真偽のほどはわからない。そう話しながらも「これが本当ならば意思統一ができていなかったということ」とそのシーンを悔やんだ。
そして、韓国に敗れたことで「勝たなければ敗退」という状況に追い込まれたドミニカ共和国との最終戦。竹下は会場に足を運んでいた。
だが、公式練習を見て絶句したと振り返る。
「いいスパイクを打った選手がいたら、全員でワーッと声をかけ合って1本1本、その都度盛り上がるドミニカ共和国の雰囲気に対して、日本は声も出ず、悲壮感が漂っているように見えたんです。『これから勝ちに行くぞ』という雰囲気ではなかった。その光景を見たら、大丈夫かな?と思う以上に、せつなさすら感じましたね」
“あの時”と似ている危機感
竹下は現役選手として3度、五輪に出場した。
アテネ、北京、そして銅メダルを獲得したロンドン。その時々で必死に日本代表としてもがき、戦い続けた経験がある。だからこそ「大前提として出場した選手、スタッフ、みんな本気で勝ちに行ったし必死で頑張ったのは間違いない。本当にお疲れさまでした、と心から言いたい」と労いながらも、自身の経験を重ねていく。
「シドニー(五輪)に出られなかった時、めちゃくちゃ叩かれました。今回はオリンピックに出ているので単純に比べることはできないけれど、でも、この危機感はあの時と似ている気がするんです」
2000年のシドニー五輪出場を逃し、竹下は“戦犯”と名指しされ強烈なバッシングを受けた。敗れた悔しさは誰よりも感じていたが、その後、当たり前に放映されていたバレーボール中継がなくなり、経済不況も重なりチームも減った。メディアに取り上げられるのが当たり前と思っていた頃には気づかなかったが、露出の機会が減少すれば当然人々の目に留まる機会もなくなり、子どもたちを含めたバレーボール人口も目に見えて減っていく。
五輪に出られないと、結果を出せないとこうなるのか。現実を痛いほど突きつけられたと振り返る。