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布団に火まで…高校での壮絶イジメを乗り越え、MLBでブルペン捕手として掴んだチャンピオンリング3つ「環境を変えることも大切」 

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高木遊

高木遊Yu Takagi

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photograph byTaira Uematsu

posted2021/04/04 11:01

布団に火まで…高校での壮絶イジメを乗り越え、MLBでブルペン捕手として掴んだチャンピオンリング3つ「環境を変えることも大切」<Number Web> photograph by Taira Uematsu

2005年からブルペン捕手としてMLBサンフランシスコ・ジャイアンツの一員となった植松泰良氏。チャンピオンリング3つは日本人最多である

興味を抱いたスポーツ医学

 野球を楽しめず、実力的にも控え捕手。当然、植松のもとには大学推薦の話はない。そこで、植松は母の勧めでアメリカへ留学することを決めた。すると、それまで狭い世界しか知らなかった植松の視野は「こんな世界もあるんだ」と、広がっていった。

 そんな生活の中で最も興味を抱いたのがスポーツ医学の世界だった。

 シカゴ・ホワイトソックスでトレーナーを務めた桑原匠司さんを知人から紹介してもらった植松は、桑原さんの母校である南イリノイ大に入学。そこで全米公認のアスレティックトレーナーを目指すことにした。

 現在につながる大きな転機になったのが、大学3年時。実習で野球部の担当になったことだ。

 練習を見て、ふと思った。

「打撃投手のコントロールも、ブルペン捕手のキャッチングも自分の方が上手いな」

 アメリカでは、プロも学生野球もコーチが打撃投手を務めるのが常だが、植松は「自分にやらせてほしい」と監督に頼みこんだ。最初は軽く受け流されたものの、翌日に監督からキャッチボールの相手を頼まれると、「きれいな回転の球を投げる」と監督は植松の球質を高く評価。その日から打撃投手を任されることになった。

 さらにブルペン捕手としても、アメリカの文化にはない日本流の「音を鳴らすキャッチング」が投手陣の好評を得た。高校時代、控えに甘んじ打撃投手やブルペン捕手ばかりしていたことが、アメリカの地で大いに生かされることになったのだ。

アジア人では珍しいブルペン捕手

 仲間たちからの信頼を勝ち得たことで、植松は野球少年の気持ちを取り戻した。

「授業中にウズウズするくらい練習へ行くのが楽しみになりました」

 そして、気づけばある思いが芽生え始める。MLBのブルペン捕手になりたい――。

 そんな思いを知った監督の計らいで、大学4年の夏にブルペン捕手としてMLBジャイアンツ傘下のAAA・フレズノにインターンシップとして参加。「将来、仕事になったら最高だな」という思いに駆られ、インターンシップ期間終了時には「来年も戻ってきたい」「これを仕事にしたい」と熱く伝えた。

 すると、サンフランシスコ・ジャイアンツから正式採用の連絡があり、まずはマイナーリーグのブルペン捕手として夢のスタートラインに立った。

 アジア人では珍しいブルペン捕手だったが「アメリカは実力が認められれば、どんな人かは関係なく受け入れてくれる雰囲気があるので、居づらい雰囲気などは全くありませんでした」と、地道な働きでしっかりと地位を獲得した。

【次ページ】 藪恵壹が加入「絶対にメジャーで働きたいです」

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