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【センバツ】99年夏「0-34」から始まった京都国際…プロ6人輩出、原石を磨く育成力でついに甲子園へ
text by
高木遊Yu Takagi
photograph byYu Takagi
posted2021/03/23 17:01
春夏通じて初の甲子園出場となる京都国際高校。今年は山口主将を中心としたチームワークを武器に臨む
記録的な大敗から始まった京都国際
1999年夏・京都府大会1回戦、0-34。京都国際高校硬式野球部の歴史はこの大敗から始まった。当時の校名は「京都韓国学園」。外国人学校としては初の高野連加盟とあって話題を集めたが、その現実は厳しいものだった。
奇しくも、この試合の対戦相手・京都成章高校の二塁手として出場していたのが小牧であった。2006年、23歳の時に当時の指導陣に誘われ同校のコーチに就任。08年から監督に昇格した。
「10数年と時間がかかったとも言えるけど、就任当初を思ったらこれでも早いやろと思いますよ。最初は野球どころやなかったですから(笑)」
小牧が赴任前の04年に外国人学校から一条校(日本の教育課程を学ぶ一般的な私立高校)となっていた京都国際は、府大会である程度勝ち進めるほどの実力にはなっていた。だが、小牧がコーチに就任した頃は「野球は大好き。でも、遊ぶこともヤンチャすることも大好き」といった生徒たちが中心。そのため、「野球させてないと何するか分からへん」と選手たちを圧倒的な練習量で鍛え上げていった。
当時を知る李勇樹さん(06年度入学、関西大→西濃運輸元外野手)は「あくまで当時ですけど、夜中までやっていました。25時までって時もあって修行みたいでしたね」と笑う。月明かりの下での練習が日常だったという。
「上の世界で通用する選手を育てる」
ただ、そんな中でも小牧はただがむしゃらに野球をやらせるのではなく、「角を磨くより、エンジンを大きくする」と尖った個性を徹底的に磨かせた。
すると結果はすぐに現れた。08年春には近畿大会へ初出場。当時のチームからは、韓国からの留学生だった申成鉉が広島にドラフト4位で指名された。13年には、中学時代は50キロ台の体重しかない“無名の軟式野球少年”だった曽根海成(現広島)が急成長し、ソフトバンクから育成ドラフト3位指名を受けるほどまでになった。
こうして原石が磨かれていく姿に、周囲の目も徐々に変化し、京都国際には自然と好選手が集まるようになった。
小牧が「1人でも多く上の世界で通用する選手を育てる」という個性を伸ばす方針を掲げたのには理由があった。
ひとつはルーツが外国人学校だったことで選手が集まりにくかったため、「上(プロ)で活躍する選手を育てないと周りから認めてもらえへん」という、高校野球の入口となるリクルート面を考えてのこと。もうひとつは小牧自身が小柄で器用な内野手だったため、「“勝つための駒”のような存在やったんです。でも、それじゃ子供のためにならへんなと思うて」と高校野球の先にある大学、社会人、プロで活躍できるようにという思いがあった。