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“清原・桑田のPLに負けた監督”は63歳となった今…校長兼監督に 「本分は学業。赤点取ったら練習させない」 

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清水岳志

清水岳志Takeshi Shimizu

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photograph byTakashi Shimizu

posted2021/03/22 11:01

“清原・桑田のPLに負けた監督”は63歳となった今…校長兼監督に 「本分は学業。赤点取ったら練習させない」<Number Web> photograph by Takashi Shimizu

聖隷クリストファーで校長を兼任する上村監督

現役時代は「ミスすればバットでどつかれた」

 上村監督が選手として甲子園に出たのは75年夏のことで、センバツでは掛川西(以下掛西)と静岡商(以下静商)がベスト8。静商の1学年下には久保寺雄二(元南海)、大石大二郎(元近鉄)がいた。また2年前の夏には、静岡高校が準優勝していた時代だ。

 自宅は遠州の空っ風をも遮られる山の中。通学にはバス、電車、バスと乗りついだ。

「6時の始発に乗って7時半に学校に着く。帰りも21時2分 のバスに乗るしかない。22時半について、風呂から出るとスポーツニュースが始まってた」

 当時の高校野球は猛練習が当たり前。こんなエピソードを語ってくれた。

「練習はミスをすればバットでどつかれた(笑)ノックでフラフラ。何かあれば走らされて、張り倒されたほうが楽だった。

 ナイターの設備がないので朝の4時半、5時から練習した。他のチームと違って、うちはこれだけやってるんだと。厳しくてみんなやめた。残ったのは学年で10人ぐらい。でも根性あってずぶとい連中です。何か一番にならないと甲子園には行けない。それは練習だった」

 当時らしい猛練習の甲斐あってか、甲子園では2勝して3回戦まで進んだ。

 浜商から早稲田大に進んで準硬式野球部で活躍。教師になる希望を果たし、母校の監督になったのが27歳だった。就任早々の84年夏(肩書は部長)に甲子園出場したのを皮切りに、13年間で春夏8回の出場を果たす。これは浜商の監督の中では最多だ。

KKに負けたがその翌年にはPLに雪辱

 85年春、桑田真澄・清原和博のいたPL学園に大敗し、清原にはホームランを献上している。

 だが翌年にはPLに雪辱している。上村監督の野球は粘り強く、"逆転の浜商"とも称された。また進学校の掛西でも09年センバツに導き、後進の育成と並行して、甲子園でのテレビ解説なども行い、静岡県の高校球界に長らく貢献してきた。

 その後、教育委員会や他校の管理職で現場を離れていた。大きな転機となったのは磐田北の副校長の時だった。3回目のガンを患い、聖隷病院で手術したという。

「死を意識したわけではないけど、手術して1カ月も学校を休んで最後にやりたいのは何か考えた。甲子園に行きたい。もう一回高校野球をやって教員人生を終わりたい」と思ったという。この思いに、妻も背中を押した。

「入院して手術して教え子が見舞いに来て。最後、野球をやって終わるべきだよ、と言ってくれた」

 それなら、うちでやりませんか――。聖隷は迎え入れてくれた。

【次ページ】 「校長は嫌だ、といったら指導は続けていいと」

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