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【命日】野村克也が最も悔やんだ試合 シダックス時代の“野間口続投”「あの時、馬鹿なことを思わなければ…」

posted2021/02/11 11:03

 
【命日】野村克也が最も悔やんだ試合 シダックス時代の“野間口続投”「あの時、馬鹿なことを思わなければ…」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

シダックスで3年間、指揮を執った野村克也。言葉をかけられた選手たちの多くはその後、指導者への道を歩んでいる

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高木遊

高木遊Yu Takagi

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Sankei Shimbun

 1年前の2020年2月11日に84歳でこの世を去った球界屈指の名将・野村克也。最後の公の場となったのは1月25日に行われたシダックス野球部OB会の席だった。

 その場で「私があの時、馬鹿なことを思わなければ……」と出席者にボヤく場面があった。

 ヤクルトを3度の日本一に導くなどNPB通算1565勝を挙げた名将が最も悔やんでいた試合。それは社会人野球のシダックスを率いて1年目、2003年の第74回都市対抗野球大会の決勝戦、三菱ふそう川崎との一戦だ。

多国籍軍団に加わったノムさん

 シダックス野球部は1991年に軟式野球部として発足し93年には硬式野球部へと変わり、都市対抗優勝を掲げてチーム強化へ一気に舵を切った。同社創業者の志太勤は当時「アマチュア球界世界最強」の名をほしいままにしていたキューバから様々なものを吸収しようと考案。早くからキューバ人指導者や選手を獲得しキューバキャンプまで一時期は敢行していたほどだった。また当時は不況による社会人野球チームの休廃部が頻繁に起こっていたため、そうしたチームから有力選手を獲得して強化を進め、1999年には日本選手権を初優勝するまで成長を遂げていた。

 日本選手権優勝時から正捕手で、2003年に就任する野村のもとでも正捕手を務めた坂田精二郎(現立正大監督)はシダックスを「多国籍軍」と評した。様々なバックボーンを持った選手たちが入ってくるのが当たり前の環境だっただけに「新しく入った選手や若手選手に伸び伸びとやらせようという風土がありましたね」と当時を振り返る。

 それでも野村の加入は「まさかとビックリしましたよ」と話すように大きな驚きだった。さらにキューバ代表の主軸を担っていたキンデランとパチェコの強打者2人に、創価大を中退したプロ注目右腕・野間口貴彦(元巨人)も加入。チームも野村も取材に協力的で、当時の担当記者は「シダックスに行けば原稿になって、手ぶら(原稿無し)で帰ることはありませんでした」と語るように、くる日もくる日も記者がグラウンドに訪れていた。

 そんな「アマチュアであってプロのような環境」が選手たちをさらに大きく飛躍させていく。

【次ページ】 「すべてはエースの野間口くんに託します」

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