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【命日】野村克也が最も悔やんだ試合 シダックス時代の“野間口続投”「あの時、馬鹿なことを思わなければ…」 

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高木遊

高木遊Yu Takagi

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posted2021/02/11 11:03

【命日】野村克也が最も悔やんだ試合 シダックス時代の“野間口続投”「あの時、馬鹿なことを思わなければ…」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

シダックスで3年間、指揮を執った野村克也。言葉をかけられた選手たちの多くはその後、指導者への道を歩んでいる

「“あの野村さんから指導を受けている”という自信と、マスコミの方もたくさん来てくれているからこその緊張感。この2つで選手の意識が変わりました」

 最も長く野村の側にいた当時マネージャーの梅沢直充(現シダックス株式会社志太勤取締役最高顧問秘書/一般財団法人日本中学生野球連盟事務局長)はチームの変化をそう語る。

 2001年、02年と2年続けて社会人野球の二大大会である都市対抗と日本選手権の出場を逃していたシダックスだが、03年は激戦区の東京代表を第一代表で勝ち上がると、都市対抗初戦で強豪・トヨタ自動車を5対2で下して勢いに乗り一気に決勝まで駆け上がった。

 決勝戦の相手・三菱ふそう川崎は2000年に都市対抗優勝を果たした脂の乗ったチームだった。率いる社会人球界の名将・垣野多鶴(たづる)監督は決勝戦前夜「絶対負けられないぞ」と選手たちに発破をかけた。

 当時入社16年目のベテランだった桑元孝雄(現東京農業大コーチ)はこう振り返る。

「普段はそんなこと言わない人なんで驚きました。“プロがなんだ!”という思いを持っておられたし、相手が野村さんだっただけに余計にそうだったんだと思います」

 決勝戦もポーカーフェイスだった垣野だが絶対に譲れないプライドがあった。垣野もまた野村と同じく野球以前の人としてのあり方など人間性や社会性を問うことが多かった。「似た者同士だったのかもしれません」と桑元が話す2人の名将の意地がぶつかり合った。

「すべてはエースの野間口くんに託します」

 決勝戦という舞台に加えて、プロ野球の名将「ノムさん」が就任早々、社会人野球の頂点に立つのか--そんな期待も相まって東京ドームはパンパンに膨れ上がった。

 シダックスの先発を任されたのは当時20歳の野間口。決勝戦前夜に「すべてはエースの野間口くんに託します」と野村からチーム全員の前で先発を告げられた。胸に期する思いがあった。

 創価大を中退した前年途中からシダックスの一員となった野間口にとって、社会人野球最高峰の舞台・都市対抗は未知の世界だった。東京予選は好調を持続していたが、都市対抗に入ってからは1回戦のトヨタ自動車戦こそ8回2失点で勝利投手となったが、2回戦のNTT西日本戦では先発を任されるも4回3失点で降板。準々決勝と準決勝は温存され満を持しての雪辱を果たす機会だった。

「調子は東京予選がピーク。(実質1年目で)都市対抗がどんなものかも分からず、任された試合を全力で投げているだけでした。でも2試合を投げられなかった悔しさもあったので、託すと言ってくれた野村さんの言葉が嬉しかったですね」(野間口)

 ストレートのこの日の球速は速くても140キロ台前半。捕手の坂田が「あの日はストレートで押せなかった。カットボールとチェンジアップで騙し騙し投げていました」という苦しい投球だった。それでも「野間口は器用なので悪いなりの投球ができるんです」と坂田が評すように、高校3年春に甲子園初出場の関西創価を4強に導いた投球術で走者を許しながらも5回まで2安打無失点に抑えた。

 打線も主砲キンデランの豪快な先制2ランと二塁打で3点と援護し、試合はすっかりシダックスのペースに思えた。だが野間口は既に三菱ふそう川崎・垣野の術中に見事に嵌まっていたのだった。

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