オフサイド・トリップBACK NUMBER
マラドーナはスキャンダラスな世界的英雄だった クライフ、ジダンと似て非なる庶民派のカリスマ性
text by
田邊雅之Masayuki Tanabe
photograph byTakuya Sugiyama/JMPA
posted2020/12/28 11:01
毀誉褒貶が激しかったマラドーナだが、それだけ世間が彼の人間性に注目していた証でもある
まずクライフとジダンが哲学者や聖人の如きイメージで捉えられたのに対し、マラドーナは徹頭徹尾、庶民派だった。
彼は常にアルゼンチンの大衆に寄り添おうとしたし、まるまると太った身体で、なぜか両腕に時計をはめ、葉巻をくゆらせながら公の場に登場する姿は、畏敬の念というより親しみやすさを僕たちにも覚えさせた。愛人騒動や11人もいるとされる子供の存在も、ある意味、非常にわかりやい。マラドーナはサッカー界が生んだ稀代のカリスマでありながら、大衆演劇の主役のようでもあった。
またマラドーナは、クライフやジダンと異なり監督として一度も成功を収めていない。むしろチームを率いながら、違う形で注目を集め続けた。
クラブチームの試合であろうと国際大会であろうと、スタジアムが一番どよめくのは、マラドーナが姿を現した瞬間と相場が決まっていた。これはキックオフのホイッスルが鳴った後も変わらない。テクニカルエリアに飛んできたボールをマラドーナが足でさばくシーンは、へたをすれば得点シーン以上の見どころとなった。
ディエゴとマラドーナの距離
クライフやジダンとの最後の違いは、スキャンダルの多さだ。
ナポリ時代のマラドーナは、コカインに溺れマフィアとの黒い交際も幾度となく取りざたされている。ピッチ上に降臨した「神」は、堕ちた偶像でもあった。来春、日本で上映されるドキュメンタリー映画には、関係者の象徴的な証言が登場する。曰く。「彼の中には二つの顔がある。“ディエゴ”は素晴らしい青年だが、“マラドーナ”は最悪の問題児だ」(「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」)
簡単に述べるなら、生前のマラドーナは人間離れした才能を持つ代わりに始末に負えず、子供がそのまま大人になったような人物であり、典型的なトラブルメーカーだった。
サイモン・クーパーが編集を手掛けた好作品集『パーフェクトピッチ(邦題「ゴールの見えない物語」森田浩之訳)』には、W杯メキシコ大会から約10年後、マラドーナに面会を試みたリネカーと番組取材班のドタバタ劇が描かれている。
約束を取り付ける度にすっぽかされ、取り巻き連中に振り回され続けた“ミスター・ナイスガイ”は、最後の最後でとうとうへそを曲げてしまう。
「一緒に行こう。控え室で話ができる」
「いやだ」