オフサイド・トリップBACK NUMBER
マラドーナはスキャンダラスな世界的英雄だった クライフ、ジダンと似て非なる庶民派のカリスマ性
text by
田邊雅之Masayuki Tanabe
photograph byTakuya Sugiyama/JMPA
posted2020/12/28 11:01
毀誉褒貶が激しかったマラドーナだが、それだけ世間が彼の人間性に注目していた証でもある
軍事独裁政権が君臨していた間、アルゼンチンでは3万人もの人が行方不明になったり、殺害されたりしている。しかもインフレは悪化する一方で、通貨の価値は暴落。1980年代末には5000%ものインフレ率を記録するようになる。このような状況の中、マラドーナは大衆の不満を解消する「ガス抜き」のために政府に利用されていたからだ。
後にチェ・ゲバラやカストロのタトゥーを彫ったことからもわかるように、マラドーナは政治的に左寄りで、大衆とともに権力に楯突こうとする一種のポピュリストだったにもかかわらずである。
だがマラドーナは、最終的にアルゼンチンに福音をもたらした。フォークランド紛争敗戦や信じがたいインフレ、軍事独裁政権が残した傷に社会全体があえぐ中、唯一の「救い」を人々に与えている。
サッカーを国家のアイデンティティに高めた
それと同時にマラドーナは、サッカーを国家のアイデンティティにまで昇華させた。
むろんサッカーは国民的なスポーツとして昔から愛されていたが、アルゼンチンはメキシコ大会を通じて、自らの存在を国際社会で再びアピールすることができた。マラドーナの死に多くの人が涙し、葬儀が国葬として扱われたのは、これらの歴史・社会的な文脈を踏まえることで初めて理解できる。
イタリアの絶望的な南北格差を覆した男
似たような現象はナポリでも起きた。
マラドーナはW杯メキシコ大会の2年前、バルセロナからナポリに移籍。クラブに悲願の初タイトルをもたらしている。これは社会文化的な文脈でも画期的だった。
イタリアの北部と南部は、まるで別の国のようだと評される。北部は経済的に豊かで洗練されているのに対して、南部は貧しく治安が悪いというステレオタイプは今も根強い。北村暁夫氏は好著『ナポリのマラドーナ』において、イタリアの南北問題には人種差別さえ含まれていると断じている。
南北の格差は、ピッチ上にも反映されてきた。驚くなかれ、マラドーナ在籍当時のナポリ(86-87と89-90シーズン)を除けば、第二次大戦以降の75年間でセリエAを制した南部のクラブ(ローマ勢以外)は、カリアリ(69-70シーズン)のみである。
この絶対的な格差を覆したのがマラドーナに他ならない。マラドーナは北側の合理主義を「個」が覆したという点でも衝撃を与えた。マルディーニは語っている。
「超個人主義を謳うサッカーがミラノから遠いナポリに現れ、我々は屈したんだ。"北対南"の歴史的な構図を背景にしたこの事実は、たしかに、当時の北にとって覆すべき命題とされていたと言えるだろう」(Number621号 ACミラン「革命の生まれる場所」より)