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【謎の死】「ドイツを勝たせろ」のナチス高官を無視して撃破 “オーストリアの英雄”シンデラーを知っているか?
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL’Équipe
posted2020/12/08 17:00
「フットボールのモーツァルト」と謂われたオーストリア代表のマティアス・シンデラー
「ドイツを勝たせろ」ナチス高官に言われても……
モラビア地方(現チェコ)のコズラウに石工の息子として生まれ、仕事を求める父親とともにウィーンの労働者街ファボリテンに移り住んだシンデラーは、創造力とプレーの美しさでウィーンの知識階級たちを虜にした。作家のアルフレート・ポルガーやハンス・バイゲル、建築家のヨーゼフ・ホフマン、詩人のフリードリッヒ・トルベルク、俳優のアッティラ・ヘルビガーらが彼の熱心な信奉者となった。クラブや代表のチームメイト、子供時代からの友人たちは言うに及ばない。ウィーンの親密な人間関係とコスモポリタンな雰囲気に居心地の良さを感じたシンデラーは、イングランドのクラブからの度重なるオファーにもかかわらず、ウィーンから離れることはなかったのだった。
そうであるからこそ運命は急転した。1938年3月12日、オーストリアはドイツ第三帝国に併合された。ナチスに敵対しナチス式の敬礼を拒否したシンデラーは、それでもウィーンを離れようとはしなかった。逆にユダヤ人であることから公職を解かれたミシュル・シュバルツ前オーストリア・ウィーン(クラブ)会長に対して親愛の情を示し続けた。
「会うことが禁じられても、私はあなたに会って挨拶できることに無上の喜びを感じています」と彼は語っている。
反ユダヤ法を無視してシュバルツが経営する店を買い取り、友人であるレオポルド・ドリルのためにカフェも買収した。カフェは後に無償で当局に接収されるが、そのときまでユダヤ人の入店を拒まなかったのだった。
ナチスドイツとの微妙な対立関係も続いた。ヒトラーの肝いりで1938年フランスW杯に向けて結成された《大ドイツ代表=ドイツとオーストリアの合同チーム》への招集要請――ゼップ・ヘルベルガー監督のオファー――を年齢と膝の古傷の悪化を理由に断ったばかりか、同年4月3日におこなわれた大ドイツ対旧オーストリア戦では後者のキャプテンとして出場、「ドイツを勝たせるように」というナチス高官たちの指示を無視して自らも得点をあげ2対0で勝利。大観衆の面前で彼らの面子に泥を塗ったのだった。
ナチスが消せなかった「英雄の功績」
その才能を取り込むことに失敗して、ヒトラーの取り巻きたちは彼の殺害を画策したのだろうか?
可能性は大いにある。だが、彼らのミッションは失敗に終わったといえる。亡くなってから80年がたった今も、シンデラーの命日である1月23日には多くの人々がその自由な精神に敬意を現して墓前に集まっているのだから。