競馬PRESSBACK NUMBER
【菊花賞】「京都競馬場の最寄りやけど…」京阪電車の“ナゾの競馬駅”「淀駅」には何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byMasashi Soiri
posted2020/10/25 06:00
京阪電車の“ナゾの競馬駅”「淀駅」には何がある?
競馬場は新参者(シンザンではないですよ)
ただ、そんな淀駅にも歴史を感じさせるものがある。高架下の駐輪場、旧淀駅のあった場所のすぐ隣にある木々が茂る公園のようなもの。これは、江戸時代まで淀藩の藩庁だった淀城の跡だ。淀城というと歴史的には2つあって、ひとつは室町時代から安土桃山時代までの“淀古城”。明智光秀が本能寺の変で裏切り行為を働いた後、天王山の戦いに備えて入ったこともあるという。さらに有名なのは豊臣秀吉が側室の茶々に与えて産所としたエピソード。あの“淀殿”のいわれである。
だが、この淀殿でおなじみの淀古城は旧淀駅の裏手の公園とは違う場所にあった。旧とか古とかでわけがわからなくなりそうだが、今の淀城跡と呼ばれているお城は江戸時代初期に築かれたもので、江戸時代を通じて西国に睨みを効かせる拠点として譜代大名が入っている。そして幕末の鳥羽・伏見の戦いでは敗れた幕軍がこの淀城に籠城しようとしたものの、譜代だったはずの淀藩稲葉氏に裏切られて入城を拒否された、などという出来事もあった。
淀の地は競馬場がどうのこうのと言っていられないほどに長い歴史を持つ街であり、江戸時代には淀藩の城下町だったのである。さらに少し歩けば駅の周りにも城下町の面影がほんのり残っている。駅の南側には古い木造家屋がいくつも建ち並んでいる道筋もあり、いわゆる“昭和の商店”も散見。単に京都市郊外の住宅地というだけでなく、古い町であることがわかる。だから競馬場に15年も先行して淀駅が誕生したのはとうぜんのこと。旧城下町は駅の南側に広がっていたから、北側の商店街すらも淀の歴史で言えば新しい部類に入る。そうした城下町の外れの空き地に設けられた京都競馬場も、もちろん新参(シンザンではないですよ)なのだ。