ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
難病と闘ったマサ斎藤の死から2年。
天龍、長州を開眼させた男を偲んで。
posted2020/07/19 08:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
Yukio Hiraku/AFLO
早いもので、この7月14日でマサ斎藤さんが亡くなって丸2年が経ち、三回忌を迎えた。
僕は『Number PLUS プロレス総選挙2018』において、長年パーキンソン病と戦ってきたマサさんをリハビリ施設で取材。結果的にそれが生前最後のインタビューとなってしまったことで、いまだにどこか喪失感が拭えない。
おそらくマサさんが生きていれば、今年あたりは様々なメディアで取り上げられていただろう。1964年の東京オリンピック・レスリング日本代表として、今年予定されていた東京オリンピック・パラリンピック2020でも、昭和と令和の五輪をつなぐような仕事がきっとあったはずだ。
そして新型コロナウイルスの世界的感染拡大により、五輪が延期になって以降も、'87年10月4日にアントニオ猪木と伝説的な“無観客試合”である巌流島の決闘を行なっているマサさんには、コロナ時代を生き抜くヒントを与える役目があったに違いない。
それだけに残念な思いがあるし、東京オリンピック・パラリンピックになんらかの形で関わることを心の糧としてリハビリに励んでいたマサさんにとっても、無念であっただろう。
天龍、長州を開眼させたのはマサさん。
思い返してみると、マサ斎藤こそもっともプロレスラーらしいプロレスラーだったように思う。'64年の東京オリンピックにレスリング・ヘビー級日本代表として出場したのち、翌'65年にプロ転向。'67年に渡米後は、本場アメリカマットを一匹狼として渡り歩き、長年トップヒールとして活躍した。
海外でのマサさんのたくましい姿は、'70年代末と'80年代初頭にアメリカ武者修行を行った天龍源一郎と長州力にも多大なる影響を与えた。ふたりはそれぞれ大相撲とレスリングから転向後、プロレスという“競技”とはまた違う独特の世界になじめず燻っていた。ところがアメリカでマサさんと出会い、異国で、腕一本でカネを稼ぐその姿に感化され、プロレスラーとしての生き方を見つけた。天龍と長州という'80~90年代を代表するレスラーふたりをプロレスに開眼させたのは、マサさんだったのである。