ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
難病と闘ったマサ斎藤の死から2年。
天龍、長州を開眼させた男を偲んで。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byYukio Hiraku/AFLO
posted2020/07/19 08:00
監獄固めを決めるマサ斎藤(1993年撮影)。プロレス界に残した功績は、これからも語り継がれていくだろう。
奮い立たせていた2020年東京五輪。
新日本に居場所を失ったマサさんは、同じく現場監督のポジションを追われた長州力の誘いにより、WJプロレスに移ることとなる。そして、WJプロレスもわずか1年で崩壊してしまうのだ。
立て続けに降りかかってきた災難。それでも2005年に愛弟子・佐々木健介の要請で健介オフィス(ダイヤモンドリング)の選手アドバイザー、若手のコーチを務めると再び前向きになり、病状も安定していた。
しかし、そのダイヤモンドリングも'15年に団体としての活動を終了し、道場も閉鎖。再び生きがいをなくし、一時はパーキンソン病の副作用で鬱状態となったマサさんを再び奮い立たせたのは、2020年に開催が決まった東京オリンピックだった。
かつて青春のすべてをぶつけた東京オリンピックに再びなんらかの形で関わる。それを大きな目標として苦しいリハビリを続けたが、'18年7月14日に容態が急変し、志半ばで帰らぬ人となった。
「GO FOR BROKE」
葬儀の際、マサさんの死因は公表されなかったが、今回このコラムを書くにあたって倫子夫人に連絡を取ると、「心臓に十分な血液が運ばれなかったことによる急性心不全」だったことを明かしてくれた。
オリンピック代表まで務めたトップアスリートであるマサさんの心臓は、一般の人よりも大きい、いわゆる「スポーツ心臓」だった。そのため多くの血液を必要とし、軽度の糖尿病を併発していたことで、心不全を起こしてしまったとのことだった。
いわば、マサ斎藤はアスリートとしてあの世へと旅立ったのだ。そして、最後まで病と闘い続け、座右の銘である「GO FOR BROKE(当たってくだけろ)」して、人生を締めくくったのである。