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新鍋理沙「自分が納得できる道を」。
厳しさを貫いた11年のバレー人生。 

text by

田中夕子

田中夕子Yuko Tanaka

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photograph bySAGA Hisamitsu springs

posted2020/07/01 11:00

新鍋理沙「自分が納得できる道を」。厳しさを貫いた11年のバレー人生。<Number Web> photograph by SAGA Hisamitsu springs

引退会見の終盤には涙声でファンへ感謝の言葉を述べた新鍋理沙。代表でも久光製薬でも攻守の両面でチームに欠かせない存在だった。

「1年後を想像するのが難しかった」

 延期の決定から間もない今年4月23日には手術を敢行。3、4年前から痛みを感じてきたが、「日本代表の合宿が始まってからはオーバーパスをするのも痛くなった」という右人差し指と中指の付け根の疲労骨折した箇所をドリリングし、伸びた靭帯を縫い縮めた。その時点ではもちろん、東京五輪で最終メンバーの12名に入り、目標のメダル獲得、よりよいパフォーマンスへつなげるための前向きな選択ではあったが、リハビリに取り組むうち、感じたのは「本当に前以上のプレーができるのか」という不安だった。

「年々コンディションもパフォーマンスも落ちていると感じていました。もう1年同じサイクルで、コンディションを保つのは、自分の中でちょっとしんどいと思ってしまったり、なかなかいいイメージを持つことができなくなってしまった。もともとオリンピックが最後の目標で、そこで引退しようと思っていたので、それがもう1年となった時に、1年後を想像するのがすごく難しかったです。今辞めるのは無責任だという思いもありましたが、そういう気持ちが出てしまった以上、中途半端な気持ちではやっちゃいけない。そう思ったので、こういう決断をしました」

 納得できない自分で続けるよりも、いっそ潔く。たとえ周囲にどう思われようと、自分が納得できる道を選ぶ。それが突然の引退へ至った理由であり、これまでの歩みと同じく、新鍋の生き方そのものとも言うべき決断でもあった。

萱嶋代表「かけがえのない選手だった」

 会見に同席した萱嶋章・SAGA久光スプリングス代表取締役も「かけがえのない選手だった」と振り返ったように、久光製薬でも日本代表でも新鍋に代わる選手はいない。決して派手ではなくともそう思わせる、特別な存在だった。

 ファンへのメッセージを求められ、新鍋は「みなさんと戦った11年は私の財産で、一生忘れない」と涙で言葉を詰まらせたが、それは見てきた者たちにとっても同じ。飽きることなく何度も、納得するまで繰り返された練習の賜物である技術の1つ1つもそう。たとえコートから離れても、きっと残像は残り続けるはずだ。

 これが初めての試合出場というルーキーや、ディフェンスのウィークポイントを着実に狙う。なおかつ勝負所にめっぽう強い。そんな選手を見たら、それぞれが「あの時の新鍋」に重ね、振り返るのではないだろうか。あれほど嫌な選手はいなかった、と。

 アスリートにとって、1年という時間がどれほど長く、重いものかを噛みしめながら。

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新鍋理沙
久光製薬スプリングス

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