プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
“呪われたIWGP”が持つロマン。
プロレス界の栄枯盛衰を映す鏡。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/06/29 11:00
決着をつけるべく、IWGP優勝戦での二度目の決戦となった猪木vs.ホーガン戦だったが、またもやうやむやに。
みんな、ちゃんとした決着が見たかったのだ。
物が無数にリングに投げ込まれて、怒号が国技館に充満した。大きかった猪木コールが、そのまま全部大きな不満となって爆発していた。
みんな、ちゃんとした決着が見たかったのだ。
1年も待たされたのだから。
第2回IWGPの優勝者は猪木になったが、不透明決着に収まらないのが、満員の観客だった。
帰らないファンは、さらに無人のリングに物を投げ込み続けた。中には新聞紙に火をつけて猛抗議する者までいた。国技館の時計を取り外して、さらにはマス席のパイプまで破壊していた。
IWGPリーグ&トーナメントは5年続いた。
IWGPは1985年の第3回大会優勝戦では、猪木が東京でアンドレ・ザ・ジャイアントにリングアウト勝ちして2連覇した。さらに名古屋ではWWF世界王者ホーガンを相手にベルトを賭けてIWGPヘビー級選手権として防衛戦を行い、リングアウト勝ちしたが、これは決着と呼べるものではなかった。猪木とホーガンのシングル戦はこれが最後になった。
IWGPはリーグ戦あるいはトーナメントとして1987年まで5年続き、猪木が4連覇したが、WWFとの提携は1985年を最後に終わって参加レスラーの豪華さは失われていった。
シリーズとしてのIWGPの役目が終わったということで、IWGPは正式にIWGPヘビー級選手権としてタイトル化されて、猪木が初代王者になった。
全米マットではNWA至上主義は後退して行く。WWFは1985年から「レッスルマニア」をスタートしケーブルテレビで増収を得て、全米マーケット制圧に乗り出した。1988年にはテレビ王テッド・ターナーがNWAのブランドと共にWCWに買収したことで、'90年代はWWFとWCWが全米を二分する勢力図に書き換えられた。リック・フレアーが王者のまま、WWFに移ったり、逆にホーガンがWCWに移籍し、WCW世界王者として戦った。一時はWCWの勢いがWWFを上回ったこともある。
だが、永遠の栄華などない。WWFの侵攻は続き、WCWはターナーがプロレスから手を引くことで消滅に向かう。