ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
ジャンボ鶴田、49歳での死から20年。
プロレス馬鹿にならなかった男の夢。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2020/05/13 11:40
スタン・ハンセン(左)に“ジャンピングニー”を見舞うジャンボ鶴田。
“善戦マン”と揶揄された時代。
鶴田は、'72年に全日本プロレス入団を発表すると、すぐに渡米。テキサス州のファンク道場で修行を積み、翌'73年に凱旋帰国を果たすと、10月9日蔵前国技館でジャイアント馬場と師弟コンビを組み、米国での師匠であるドリー・ファンクJr.&テリー・ファンクの持つインターナショナル・タッグ選手権に挑戦。
60分3本勝負で行われたこの試合で鶴田は、テリーを高角度のジャーマンスープレックスで仕留めて1本目を先取。結局、2本目をテリーに取り返され、最終的に時間切れ引き分けに終わったが、トップレスラー相手に堂々と渡り合い、いきなりトップレスラーの仲間入りをはたした。
さらに'76年に元NWA世界王者ジャック・ブリスコを破り、UNヘビー級王座を獲得したのをはじめ、世界のトップレスラーたちと互角以上の闘いを常に見せて、馬場の後継者、全日本プロレスの次期エースの座を確固たるものとしていったのだ。
しかし、その一方で、超大物レスラーと互角に闘いながら、完全な勝利を奪うまでには至らぬ試合が続き、“善戦マン”と揶揄されてしまう。当時の鶴田は、まだ“格”の上では馬場に次ぐナンバーツー。外国人トップレスラーたちは、ナンバーワンの馬場には敗れても、ナンバーツーの鶴田には、完璧なピンフォールは許さなかった。鶴田が“善戦マン”と呼ばれたのは、“格”の壁があったのだ。
日本人対決で明確となった強さ。
こうして長らくナンバーツーとして、“超一流”の壁を破れないでいた鶴田だったが、1980年代に入り馬場が第一線を退き始めると、次々と結果を出していき、'84年2月にはニック・ボックウィンクルを下し、AWA世界ヘビー級王座を奪取。“世界3大王座”と呼ばれたAWA王者となったことで、名実共に超一流レスラーの仲間入りをはたしたのだ。
そして、'80年代後半に入り、日本のプロレスの主流が、日本人vs.外国人から日本人同士の闘いに移ると、鶴田はさらにその実力を発揮し始める。とくに'85年11月に実現した長州力との唯一のシングルマッチは、結果こそ60分時間切れ引き分けながら、内容で圧倒。「鶴田強し」をファンに大きくアピールすることとなった。
その後、天龍源一郎、三沢光晴との抗争でも、その日本人離れした強さを発揮。若い頃、外国人相手に闘っていたときには見えにくかった鶴田の本当の強さが、日本人同士での闘いであらためて明確となり、デビュー当時からトップレスラーだった早熟の天才は、遅咲きの大輪を咲かせ、ファンの大きな支持を獲得したのだ。