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ジャンボ鶴田、49歳での死から20年。
プロレス馬鹿にならなかった男の夢。

posted2020/05/13 11:40

 
ジャンボ鶴田、49歳での死から20年。プロレス馬鹿にならなかった男の夢。<Number Web> photograph by AFLO

スタン・ハンセン(左)に“ジャンピングニー”を見舞うジャンボ鶴田。

text by

堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph by

AFLO

 5月13日でジャンボ鶴田がなくなり、丸20年を迎える。思えば鶴田こそ、現代的なレスラーの先がけだった。

 現在、多くのプロレスラーがTwitterなど、SNSのアカウントを持ち、等身大の自分を見せることでファンに親しまれているが、かつてプロレスラーは“怪物”だった。

 常人離れした肉体を誇り、個性豊かな外国人レスラーたちと血で血を洗う闘いを展開する。その姿は、プロスポーツ選手というよりも、特撮テレビ番組の怪人や怪獣に近いとさえ言える、まさに“異形の人”。そんなプロレスラーのイメージを最初に変えたのが、ジャンボ鶴田だ。

“プロレス馬鹿”になることを嫌った。

 鶴田はミュンヘンオリンピック・レスリング日本代表の肩書きを引っさげ、中央大学卒業を控えた1972年10月に、ジャイアント馬場率いる全日本プロレス入団を発表。その会見で「全日本プロレスに就職します」というコメントを残したことはあまりに有名だが、プロレス界に似つかわしくない「就職」という言葉は、新しいタイプのレスラー、鶴田を象徴するものだった。

 昭和のプロレスラーは、怪物的なイメージを守るため、リングを降りても“プロレスラー”として振る舞う人が多かった。しかし、鶴田はリングを降りたら1人の若者、1人の社会人であろうとしていた。

 鶴田が全日本でスターになり始めた'70年代前半は、フォークソングの全盛期。井上陽水、小椋佳のファンで、自らも趣味でギターを弾いていた鶴田は、ファンを集めてコンサートを開いたこともあった。鶴田は“プロレスバカ”になることを嫌い、「プロレスラーにもこういうことができる」ということを見せようとしていたという。

 しかし、そういった鶴田の姿勢は、必ずしもファンに受け入れられたとは言えなかった。鶴田は、その明るいキャラクターで女性や子どものファンを開拓したが、一方で硬派なファンや業界の先輩方からは『プロレスラーたるもの、そんな軟弱なことをするな』という風当たりは強かったのだ。

 また鶴田は、リング上においても、誰と闘ってもそつなく試合をこなすが、気迫を前面に出さない性格から、全日本入団の時に発した『就職します』という言葉尻を取られて、“サラリーマンレスラー”と揶揄されることも多かった。

【次ページ】 “善戦マン”と揶揄された時代。

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