ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
ジャンボ鶴田、49歳での死から20年。
プロレス馬鹿にならなかった男の夢。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2020/05/13 11:40
スタン・ハンセン(左)に“ジャンピングニー”を見舞うジャンボ鶴田。
病に倒れるも、大学院生プロレスラーに。
だが、そんな鶴田の絶頂期は長く続かなかった。1992年11月、B型肝炎を発症。7カ月の入院生活を経て翌'93年に復帰するも、鶴田が上がることのできたリングはメインイベントではなく、身体への負担が軽い前座の6人タッグマッチ。その後、鶴田がメインイベントに戻ることは、ついになかった。
しかしジャンボ鶴田の、いや人間・鶴田友美の凄さを見せつけられたのは、病気になってからだ。
リングで満足に闘えなくなった鶴田は、B型肝炎発症から1年半後の'94年4月、筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格。日本人初の大学院生プロレスラーとなり、さらには慶応義塾大学、桐蔭学園横浜大学の非常勤講師として授業も受け持つまでになった。
そして'99年2月、正式に現役を引退。さらなる夢を追って、翌3月からアメリカに渡り、オレゴン州のポートランド州立大学で研究生生活に入る。プロレスで世界王者になった男が、今度はスポーツ生理学で教授となる夢に向かって邁進したのだ。
「人生はチャレンジだ!」
ところが渡米後、B型肝炎が悪化。肝硬変を経て肝臓がんという重篤な状態に進行し、2000年春、フィリピンで臓器移植手術中に大量出血を起こし、5月13日に帰らぬ人となる。49歳での早すぎる死だった。
それでも、まさに働き盛りの40代に病気により自分の天職を失いながら、自分の新たな夢にチャレンジした鶴田の生き方は、人々に大きな勇気を与えてくれた。
鶴田は若い頃から、「プロレスラーは世間に出たら何もできないと思われているのが悔しい」と、よく口にしていたという。だからこそ病によってプロレスラーとしての現役生活が終わってしまっても、人間として終わったわけではない、ということを示そうとしていた。
故郷・山梨県にあるジャンボ鶴田の墓石には、「人生はチャレンジだ!」という、生前の鶴田が座右の銘とした言葉が彫られている。
“プロレスラーらしくないプロレスラー”ジャンボ鶴田は、誰よりもプロレスラーの可能性を追求した男だったのだ。