“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
初のJ1に挑む大分MF野村直輝。
中断する今、考える「10番」の仕事。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byJ.LEAGUE
posted2020/05/10 08:00
今季から大分に移籍した野村直輝。開幕戦では途中出場ながら存在感を残した。
出番が激減、気持ちが切れた。
山口県下関市出身の野村は、下関中央工業高校から福岡にある日本経済大学に進学。変幻自在のドリブルと両足から繰り出されるシュートを武器に左サイドアタッカーとして頭角を現し、2014年に横浜FCへ加入した。
プロ1年目は山口素弘監督(当時)の厳しい指導を受けながらも、リーグ18試合に出場し、3ゴールを記録。上々のルーキーイヤーを過ごしたが、翌'15年はミロシュ・ルス監督の体制に変わると、状況は一変した。
「1年目にほとんどトップチームでプレーできたことで、ちょっと勘違いしてしまっていた部分があった。監督が変わり、戦術も変わったのに、1年目と同じようにやろうとしてしまったんです。練習でチームが2分割された時にサブ組に回って、さらには紅白戦にすら出られない状況になった。グラウンドの隅っこで練習したり、指をくわえて紅白戦を見ていたりと、そんな状況がずっと続いて……。自分の何が悪いのか分からず、ただ意地悪されているんじゃないかと余計なことまで考えてしまい、どんどんフラストレーションが溜まっていきました。
それである日、気持ちが切れてしまったんです。全体練習が終わったあと、いつもなら残って練習したり、クラブハウスで筋トレやリカバリーをするのですが、『やってられるか!』とすぐに着替えて帰ってしまいました。もう腹が立って仕方がなくて、不貞腐れていましたね、今考えたら」
助けてくれた偉大な先輩たち。
試合に出られない状況に置かれることは、野村のサッカー人生では初めての経験だった。高校も大学も1年目からチームの主軸として試合に出場し続け、ルーキーイヤーも上手くいった。だが、突然やってきた不遇の時に心の整理がつかなかったのだろう。現状を受け入れる事ができず、反発するしか方法がなかった。
「まだまだ子供でしたね。でも、そこで僕を助けてくれたのが偉大な先輩たちでした。飯尾一慶さん、安英学さん、渡辺匠さんが厳しく注意してくれた。『試合に出られない時こそ人間性が出る』、『試合に出ていない選手の振る舞いも大事だし、出ている選手の振る舞いも大事。絶対に見られているぞ』と。さらに『腐った姿勢を見せるのはもっての外だし、出ている選手も出ていない選手の想いを汲んで、責任を持ったプレーや立ち振る舞いをしないといけない』とプロサッカーチームにおける個人のあり方を教えてもらいました」
野村は“高卒”ではなく、“大卒”ルーキーだ。20歳を超える大人が、単に腐っているだけであれば「こいつはもういいや」「何を言っても無駄だ」と見放されてもおかしくない。なぜベテランたちは野村に対して愛のある言葉をかけたのだろうか。
それには、彼の“ある行動”が起因している。