欧州サッカーPRESSBACK NUMBER
日韓W杯後、中村俊輔のセリエ挑戦。
あの夏の南イタリアで感じた焦熱。
posted2020/05/07 11:50
text by
杉山孝Takashi Sugiyama
photograph by
Getty Images
2002年、世界への扉が開いた気がした。当時の取材ノートを開くと、“世界最高峰”に触れた興奮がにおい立つ。
普段使っていた大学ノートとは、一味違う1冊だった。小っ恥ずかしいことに大会公式グッズのノートを使って、日韓ワールドカップを取材していた。記憶は定かではないが、計17試合を取材するために駆けずり回った日本のどこかで、買い替えを迫られたように思う。
その年最大のイベントに気張ったか、普段以上にノートの消費ペースが早かったのかもしれない。
計算違いの甚だしさを示すように、ノートは決勝の前日取材から始まっている。日本代表とW杯を追う最後の1冊は、大会終了とともに多くのページを無駄にしたまま閉じられるはずだった。
だが、世界との邂逅は終わらなかった。むしろ、より濃密な時間の始まりだった。
松田直樹から俊輔へのエール。
W杯決勝のメモとコメントに続いて、レッジーナなるクラブの会長の名や、当時の横浜F・マリノスの強化本部長のコメントが並ぶ。そして、横浜FMの選手たちの声。
「行くんだったら、本当に頑張ってきてほしい。(失敗するような形で)帰ってこないでほしいね」。そう話したのは、日韓W杯を戦い終えた松田直樹だった。エールの先にいたのは、自国での晴れ舞台を逃した後輩だ。
突然降って湧いた、中村俊輔の海外移籍というニュース。まだ、W杯の余韻も消えないうちのことだった。事実、その後に「日本代表チームの健闘を称える会」のメモに7ページを費やしている。俊輔の海外移籍交渉取材に、なぜ普段のサッカー取材用ではなく、W杯用のノートを使い続けたのかは分からない。
話題の張本人も、悔しい過去から未来へと視線を切り替えていた。