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五輪延期で思い出した東大入試中止。
選手が感じるであろう「1年」の重み。
text by
藤島大Dai Fujishima
photograph byHiroyuki Nagaoka/AFLO
posted2020/04/02 11:30
7人制ラグビー日本代表、副島亀里ララボウラティアナラ。6月で37歳を迎える(写真は2019年のもの)。
「赤いブレザーも貰えませんでした」
最後に。こんなときこそ1980年の「モスクワ五輪ボイコット」を思い出そう。
東西冷戦下、ソビエト連邦のアフガニスタン軍事侵攻への抗議で米国が西側諸国に参加拒否を求め、日本政府は従い、圧力にさらされた日本オリンピック委員会が臨時の総会において不参加を決めた。各競技団体の抵抗はささやかだった。みずから選手を裏切り、スポーツの独立を放り出した。なにもウイルスの感染が拡大したわけでもないのに。
当時、現場を取材した記者に20年前に聞いた。「あの総会の議事録は瞬間的に数部刷って、いまはないことになっている」。英国のオリンピック委員会は政府方針に抗い選手派遣に踏み切った。フランスやオーストラリアなど西ヨーロッパやオセアニアの大半の国も参加した。
「一枚の賞状だけでした。赤いブレザーも貰えませんでした」
東日本大震災の襲う10年前の宮城県気仙沼。千田健一さんが言った。フェンシングの「幻の」モスクワ五輪代表だった。きわめて優れた指導者として公立校の女子をよく勝たせ、のちに長男の健太を五輪の銀メダリストに育て、今回の聖火ランナーを務めることになっても、無念は胸中をきっとうごめく。自由なスポーツの自由を政治の駆け引きがむしり取る。参加国と不参加国、その後の米国との関係でどれほどの差があったのか。結局は「そのときの体制」の都合がアスリートの人生を棄損しただけだ。残酷。なにより愚かだった。