Number ExBACK NUMBER
勝負師か、田舎のおっちゃんか。
ノムさんの側近が語る“振れ幅”の魅力。
posted2020/03/13 18:00
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Naoya Sanuki
野球の真髄を追究し続けた野村克也が逝った。
「投手分業制」「クイックモーション」「ギャンブルスタート」「再生工場」、そして「ID(Import Data・データ重視)野球」など、日本野球界にさまざまな革命をもたらした稀代の名将。彼は同時に多くの思い出を遺して、天国へと旅立った。
『Number』999号では、かつて参謀として野村の下で野球を学んだ3人の男たちに「ID野球とは何か?」「野村が球界に遺したものは?」と尋ねて歩いた。その答えはさまざまだったが、3人に共通していたのは「野村さんは人を遺した」という言葉だった。
1990年代のヤクルト黄金時代に打撃コーチとして、野村の下で「ID野球」を学んだ伊勢孝夫。その後は近鉄、巨人、韓国・SKワイバーンズ、そして大学野球と、現在にいたるまで「野村野球」の伝道者として活躍している。
「ノムさんが遺した財産、遺産はたくさんある。よその球団でお払い箱になった選手を再生させたのもそう。引退後にも優秀な指導者として、今でも『野村の考え』を広めているのもそう。あの人は多くの人を遺したんだよ」
野村克也が幸せだった2つの理由。
南海時代には「監督と若手選手」として、ヤクルト時代には「監督とマネージャー」として、そして、阪神、楽天時代には「監督とコーチ」として、半世紀近くをともに過ごした松井優典はこんな言葉を口にした。
「2つの意味で、野村さんはとても幸せだったと思います。1つは野球があったこと。もう1つは沙知代さんと出会ったこと。常々、野村さんは『人を遺すは上なり』と言っていました。たとえば、古田(敦也)もそうです。あるいは、ヤクルト・高津(臣吾)、阪神・矢野(燿大)など、監督、そしてコーチとして、大好きな野球を通じてたくさんの人材を遺しました。それは野村さんにとって、やっぱり一番うれしいことだったと思います」