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日本ラグビーが取り組んだ育成と強化。
13年前に蒔いた「W杯8強」への種。
text by
多羅正崇Masataka Tara
photograph byNaoya Sanuki
posted2020/02/17 11:50
W杯8強の序章は13年前だった。世界を驚かせた日本ラグビーの背景には、一貫した育成と強化に取り組んだ男たちの存在があった。
改革に乗り出した故・宿沢広朗。
無為に過ごしていたわけではない。'01年には稀代のリーダーが強化委員長に就任し、改革に乗り出している。当時住友銀行の執行役員だった元日本代表監督、故・宿沢広朗氏だ。
宿沢氏は元慶大監督でユース統括だった故・上田昭夫氏と共にユースを強化した。'02年に初めてU17(高校2年)を組織して合宿を行うなど、U21、U19、U17の年代別代表を整備したのだ。
しかし国内初のプロ選手誕生やトップリーグ創設など、日本ラグビーの構造改革に取り組んだ開拓者は、'06年6月、突然にこの世を去った。
奇しくも宿沢氏が亡くなった'06年6月は、日本協会が競技力向上委員会にジャパンの抜本的強化計画(のちのATQプロジェクト)策定を指示した時期と重なる。
実は宿沢氏は'03年、代表監督人事などを討議する場を協会内に設置している。その名も「世界8強進出対策会議」。
宿沢氏が主導して設置した「世界8強進出会議」の大志が継承されたのかは分からない。ただATQプロジェクトが、同じく世界8強を目指したことは確かだ。
高校ラグビー界の重鎮も動いた。
そうして船出したATQだったが、初年度から順風満帆とはいかなかった。
ATQを公表した'07年、目玉企画だった有望選手の海外派遣を行おうとしたが、選手が思うように集まらなかった。ATQで選手発掘統括マネージャーを担当した山本氏が、産みの苦しみを振り返る。
「協会主導で選手を海外に留学させたプログラムはそれまでなく、初回は中央大学にいたロックの眞壁伸弥などが参加してくれました。ただ、なかなか選手が集まりませんでした」
日本協会の求心力が弱く、大学・社会人チームが選手を送ってくれない。ビジョンは優れているが、現実が追いついてこなかった。しかしニュージーランドなどの強豪国はハイ・パフォーマンスが強さの理由だ。ただでさえ実力差がある上、一貫指導体制の整備もままならないのなら、いつまでも世界との差は埋まらない――。
そこで、高校ラグビー界の重鎮達が動いた。
高校日本代表の元監督で、千葉・流経大柏高を創部から約30年率いた元監督の松井英幸氏。伏見工業高(現京都工学院)の元監督で、同じく高校代表を率いた経験もある同校ラグビー部GMの高崎利明氏らだ。
ATQのビジョンに賛同した彼らが、高校グレードから一貫指導体制の整備に取り組んだのだ。